60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

読めれば分かるわけではない

2006-08-22 23:33:16 | 言葉と文字
 ヨーロッパのアルファベットの場合は、文字は音声を表現するためのものと考えられているので、文字を読むときは音声に変換されて意味が分かるということになっています。
 もちろん、知らない言葉であれば、音声を聞いても意味がわかるわけではありません。
 新しい言葉を覚えるときは文字だけで目で覚えるということはないということなのでしょうか。
 英語の場合などは、読み方の変則が多いので知らない言葉が出てきた場合、正規の読み方が分からない場合もあるはずです。
 文章の前後の関係で意味だけは分かるというケースもあるので、その場合は読み方が分からないが意味が分かるということになります。
 辞書でも意味が説明してあっても読み方が示されてないものもありますから、略語や新語などでは読み方が分からないが意味が分かるものがあるはずです。
 逆に読み方の規則を覚えたために、読み方はわかっても意味は分からないということもあるでしょうし、読めるために意味が分かったような気がしていることもあるでしょう。
 言葉は理論どうりにはいかないところがあるものです。
 
 日本語の漢字の場合は、音声を表現する手段と考えられていないで、意味を表していると考えられています。
 そのため、漢字は見れば意味が分かるとか、文字を見れば視覚イメージが浮かぶといった主張があったりします。
 漢字が象形文字から始まったことからそうした連想が出てくるのでしょうが、漢字を覚えるのに長い年月がかかっていることを忘れています。
 なかには音声を聞いたときに、漢字が思い浮かべられるので意味が分かるというように言う人もいます。
 たとえば「コウエンニデカケタ」と聞いて「公演に出かけた」とか「公園に出かけた」とかをそのときの状況に応じて、漢字をイメージしながら理解しているというのです。
 
 日本語の場合はカナが音声を表現すると、漢字は意味を表していて、読み方を覚えるものだと考えられ、そのように教育されてきています。
 教育の初期は音読ですから、まずともかく読めることが大事で、カナを振っても読めることが第一歩になっています。
 最初は読めれば意味の分かるような基礎的な言葉ですが、レベルが上がれば難しい言葉も出てきます。
 漢字が読めなければだいたい意味も分からないのですが、読めると意味が分かったような気になったり、分からなくても気にならなかったりする場合があります。
 見慣れたり、聞きなれたりすると、本当は意身が分からなくても気にならなくなったりしますが、振り仮名などで読めるだけというのも理解力を妨げるので問題です。
 漢字の書き誤りがよく話題になりますが、これは書き方の問題ではなく意味がわからず漢字を覚えているためではないかと思います。
 読み方だけのテストはやめて、意味とセットのテストにしなければ読解力が身につかないので無駄になってしまいます。

文字と視覚イメージ

2006-08-21 22:23:41 | 文字を読む

 文章を読むとき、文字の視覚イメージを思い浮かべたほうが、理解が深まりまた文章が速く読めるという説があります。
 右脳を使うほうがよいというようなことらしいのですが、実際にそうなのでしょうか。
 漢字を覚えるときも、たとえば猫という字を覚えるとき、図のように絵と一緒に覚えれば覚えやすいし、文字を見たときイメージが結びつくので、文の理解が深まるというような主張があります。
 しかし、記憶されたイメージというものがはっきりしたものだと都合の悪い部分もあります。
 たとえば図のようなイメージ猫という言葉を覚えてしまうと、猫にはいろんな猫がいるので、黒猫とか化け猫とかいったこのイメージに似つかわしくない単語が出てくると、猫のイメージを消して別のイメージに置き換えなくてはなりません。
 猫という文字を見るごとに決まった猫のイメージが頭に浮かんでいては、わずらわしくて混乱してしまうのではないでしょうか。
 
 個人差はあると思いますが、文字を見ていちいちその単語が示す視覚イメージを思い浮かべていては、頭が混乱して文章をスムーズに読み進むことは出来ません。
 文章を読んでいく過程で、ある種のイメージがわくということはあるでしょうが、単語ごとに視覚イメージが想起されては大変です。
 もし単語ごとに視覚イメージが想起されるということであれば、絵本などは混乱して読めなくなってしまうでしょう。
 画家が描いた視覚イメージと読み手の思い浮かべるイメージが違っていれば、イメージ同士がぶつかってしまいます。
 絵本にあわせようとすれば、自分が持っているイメージを押さえ込みながら読まなければならず、自分のイメージを主張するなら見えている絵本の絵を消さなければならなくなってしまいます。
 
 また視覚イメージを呼び出すというのは、映像を見るのと違って時間もかかるし、呼び出されたイメージはボンヤリとしています。
 ためしに1から10までの数字を視覚的イメージとして思い浮かべてみてください。
 書かれた数字を見るのはほんの一瞬で出来ますが、頭の中に数字をイメージとして思い浮かべるにはずっと時間がかかるでしょうし、思い浮かべた数字はボンヤリとした形ではないでしょうか。

 図の下の方の文字は色がついていますが、文字の色は見た瞬間に分かりますが、文字の色を答えるように言われたときウッカリ文字を読んでしまいます。
 「あお」という文字を見たとき、頭の中に青いイメージが浮かぶから「あお」といってしまうのだという意見もあるかもしれませんが、そのとき文字が青く見えるわけではないでしょう。
 文字の色は黒だと認識しているのに、つい文字を読んでしまったということなのです。
 つぎの「青」という文字の色は赤いのに、うっかり青と読んだりするのも、この文字が青く見えるということではありませんし、頭の中が青くなっているわけでもないでしょう。
 まして、つぎの「あほ」をウッカリ読んだとき、頭の中に「あほ」のイメージが浮かんだから読んだなどということはないはずです。


脳による自動処理

2006-08-20 22:32:18 | 文字を読む

 aは一桁の足し算で、bは掛け算ですがどちらのほうが楽に答えが出るでしょうか。
 原理的には7×5は7を5回足すのでbのほうが難しいはずです。
 ところがたいていの人は九九を暗記していて答えが自動的に出てくるので、bのほうが楽に答えられます。
 もし、足し算の九九というものがあって、暗記していれば足し算のほうも自動的に答えが出て楽に答えられるはずです。 
 実際には一桁の足し算は簡単だと見られ、答えを暗記してはいません。
 したがって、一桁の足し算は難しくはないのですが、次々と計算しなければならないときには自動的に答えを出せなくてつまづくこともあります。
 
 一桁の計算を早くさせると脳が活性化するとかで、こうした計算をしている人もかなりいるのですが、こうした計算は何度もやっているうちに自動的に答えが出せるようになります。
 そうなると楽に答えが出てしまうので、脳は活性化しなくなるので、脳のトレーニングがしたいならもっと難しい問題にすることが必要です。
 簡単な足し算をやって脳の血流が増加するのは計算の不得意な人で、計算に慣れている人は、自動的に答えが出てしまうので脳があまり活性化しないそうです。
 一桁の足し算の場合はパターンが少ないので、高齢者だからといって繰り返しやっていると答えを覚えてしまって、自動的に答えが出せるようになるので無意味になります。
 楽すぎると思う人はcのように二桁の足し算にすれば自動的に答えが出しにくいので、脳の運動にはなると思います(そろばんの出来る人は自動的に計算できるのでやはり無効ですが)。

 dは6個の数字を加える問題ですが、目で数字をとらえるのは一瞬です。
 一瞬にすべての数字をとらえることは出来るのですが、その合計は一瞬には計算できません。
 文章で言えば、一つ一つの文字は一瞬に見て取れても、意味が分からないというのと似た関係です。
 同じ足し算でもeのように並んでいて、(4+6)=10、(7+3)=10という関係が自動的に見えれば、答えはたちどころに出てきます。
 視野が狭いとeのような問題でも端から単純に計算してしまい、時間がかかってしまうのですが、自動的に答えが出せる数の組み合わせを覚えていなければ能率は上がりません。
 文章を読む場合にも、単語の意味が自動的に分かるものが多いほど文の意味が理解しやすいので、単語を多く知っているというだけでなく、すぐに意味が想起できることが必要です。


脳の処理速度

2006-08-19 22:46:41 | 文字を読む

 1行目はカナばかりなので素早く読めそうなものですが、少し引っかかってしまいます。
 眼で文字を見るぶんには知らない文字はないので瞬間的に認識できますが、意味はすぐ分かるわけではありません。
 文字は目で瞬間的にすべて読み取っていても、それだけで意味が分かるのではなく、脳が一定の処理をした結果意味が分かるのです。
 ところが眼で見て文字を認識するのに比べ、脳の処理が遅いために理解が遅れるのです。
 これが音読されたものを聞いたのであればすぐ意味が分かるのですが、音を文字に変換したものを見てもすぐに分からないのはなぜでしょうか。
 音声を文字に変換したといっても、実際の音声イメージに結びつくような形になっていないのです。

 2行目の場合はすべてタカナになっているので、ひらがなに比べれば読みにくいですが、それでも読み上げるのは難しくありません。
 音読あるいは内読によって音声イメージに変換すれば意味が分かりますが、見ただけでは意味が瞬間的には分かりません。
 「あの向こうは、どうなっているんだろう」というような形になっていれば、見ただけですぐ意味が分かるのは、漢字や句読点によって、脳の処理が自動的にしやすくなっているためです。

 アルファベット場合でも大文字と小文字が入り混じっていれば、スペリングが正しくても読み取りに時間がかかって、見た瞬間に意味を理解するのは困難です。
 「world baseball」のような形ならばすぐに分かるのは、「world」や「baswball」といった形は記憶されていて脳が自動的に処理をするためです。

 4行目は一文字ごとに下に下げて配置しているので、目を細かく動かさなくては読めませんが、見るだけなら瞬間的に文字をすべてとらえることが出来ます。
 意味処理をしようとすると、視野を狭めて見なければならないので見通しが悪く、読みにくくなっています。
 「動機づけは、学習に不可欠な条件ではない」とあれば視線を動かさなくても自動的に意味処理が出来ます。
 次の分は文字ごとに下にずらしてあるのですが、このほうが視野を狭めなくてすみ、単語のまとまりが分断されていないので、自動的に処理できる部分が多く読みやすくなっています。
 ストレスなしに文章を読むためにはある程度の視野の広がりと、単語の自動的理解が必要であることがわかります。
 脳の処理は遅いので、文字の読み取りに脳を使いすぎてしまうと、文章の意味が分かりにくくなりストレスを感じて疲れてしまうのです。


注意の向け方で変わる読みやすさ

2006-08-18 22:32:52 | 文字を読む

 一行目は真ん中の文字が小さくて読み取りにくくなっています。
 ここ二注意を向けて読み取ろうとすると、両サイドの字が「大」と「治」から外側がほとんど読み取れなくなります。
 同じ文字列でも2行目の場合は字が大きくなっているのでやや外側の文字がよく見えます。
 注意を集中するということは、他の場所に注意が向かわないようにするということなので、狭い範囲に注意を集中すれば周りが見えにくくなるのです。
 注意を一箇所に集中すればするほど文字を認識できる有効視野は狭まるのです。
 
 3行目はひらがなが交じって全体が見渡しやすくなっています。
 これは漢字よりひらがなのほうが認知しやすく注意を多く要求しないので全体に注意を向けやすいためです。
 4行目は間にあるひらがなは2種類、漢字が一種類になっているので、注意を向けるべき文字の種類が少なくなっているためさらに全体を見渡しやすくなっています。
 さらに4行目のように間の文字が一種類になってしまうと、子の9文字にほとんど注意を向けなくてすむので、全体が見渡しやすくなっています。

 ところが5行目のような場合は、4行目のように間の文字は同じ文字ではないのに、4行目と同じように全体を見渡しやすくなっています。
 これはどうしてでしょうか。
 5行目の間にある「おはようございます」という文字列は、パッと見て一つの塊として自動的に認識できるので、注意を多く向ける必要がないからです。
 4行目の「いいいいいいいいいい」と「い」だけを並べた単純な文字列と同じように認知の負担が少なくてすむためです。
 
 こうして見ると文章を見てパッと理解できる場合というのは、文字数だけの問題ではないということが分かります。
 漢字が多すぎたり、知らない単語あるいはなじみのない単語が多ければ、注意を向けなければならない部分が増えるので、全体が分かりにくく、読むのに時間がかかってしまうのです。
 新聞のニュースなどが意外と読みにくいのは、知らない人名とか、地名あるいはなじみのない官庁の組織名、法律用語などが多く登場するためです。
 新聞の文章は簡潔でなければならないので、短くて論理も複雑ではないのですが、文章を簡潔にするために漢語を多用するので結構読みにくいものとなっています。


文字の一瞥記憶

2006-08-17 23:06:44 | 文字を読む

 図の左上の文字列はロシア文字とギリシャ文字をあわせたもので意味はありません。
 たいていの人はなじみのない文字なので、一瞥しただけでは記憶できません。
 2行目は英文字なので、ちらと見ただけで記憶できるかもしれません。
 「874265」や「がしんりく」は意味のない記号ですが、数字やひらがなは日常的に使っているので一秒ほど見れば記憶することは出来ます。
 ところが「こんにちは」のように意味を持っている文字列の場合は、パッと見ただけで記憶することが出来ます。
 また数字の場合でも「24613」のように何らかの規則性がある場合は同じ字数でも記憶しやすいことが分かります。
 
 漢字の場合、「国語」とか「電光石火」のように文字数が少なく、意味がある文字列の場合はパッと見ただけで理解し、記憶することが出来ますが「護情法報保」のように意味のない文字列になると、記憶しにくくなります。
 漢字かな混じり文の「情報を保護する法律」のように文字数が増えると、なれない場合は主観的に見ただけでは全体を記憶できません。
 音読または頭の中で内読すれば記憶できるのですが、少し時間がかかるので、ちらと見ただけではまにあいません。
 無意味な数字列や、文字列の場合覚えにくいのは、意味がすぐに分からないので音読あるいは内読しようとするのですが、なじみがないので自動的に読めずに時間がかかってしまうためです。

 文章を読んでいくとき、読んだ単語や文を、読むそばから忘れて言ったのでは文章は理解できません。
 したがって一時的には、読んだ単語や文を記憶する必要がありますが、一時的な記憶がスムーズに行われないと読むのに時間がかかる上に、全体の理解も悪くなります。
 記憶するために音読とか内読をすると読み取りの時間が遅くなるので、できるだけある程度の文字数を一瞥するだけで記憶できるようにしておきたいものです。
 
 アメリカの速読術の初級は瞬間的に提示された単語を記憶するというものですが、見た瞬間に単語を認識出来ることがすなわち記憶できることだからです。
 このような訓練はとくに速読を目的としなくとも、普通の読書にも役立ちます。
 文字の瞬間的記憶ができるということは、文字を見たとき見ただけで自動的に理解できるということなので、読むときの脳の負担が少なくなり、また眼を凝らすことも少なくなり、目が疲れにくくなるからです。


視覚的な作業は速い

2006-08-16 22:59:16 | 文字を読む
 374568という数字を一瞥して35万4568とすぐに数が頭に入る人は多くはありません。
 「サンナナヨン、ゴーロクハチ」というふうに文字列として頭に入れるのは楽なのですが、数として理解するには位取りなど脳による処理が必要なため時間がかかってしまうためです。
 漢数字であれば文字列としては「三七四五六八」ですが、数なら「三拾七万四千五百六十八」と表示されます。
 アラビア数字に比べ、およその数の大きさは頭に入りやすいのですが、表示が長いので細かい部分は把握しにくくなっています。
 
 視覚的には374568というのは一瞥して簡単に把握できますし、三拾七万四千五百六十八というのも11文字ですが、一瞥して把握できます。
 一つ一つの文字はハッキリ見えているのですが、数としてはすぐには把握できていない、つまり意味的な理解は遅れるのです。
 眼で見て、一つ一つの文字は分かるけれども、文字列全体の意味はすぐに把握できないという例は、漢字が長くつながっている場合に多く経験します。
 新聞に出てくる表現は、難しい漢字でなくても長くつながった単語があるので、分かりにくいものがあります。
 
 上の例のような場合、一つの単語がいくつかの単語から出来ているので、見慣れていなければ頭の中で組み立てて意味を解釈しなければなりません。
 パッと見て自動的に意味が把握できるわけではないのです。
 目で見て取るという視覚的な作業は早くできるのですが、脳での理解が時間がかかるのです。
 理解が出来ないとその場に視線が固定されてしまうので、目を動かすスピードが遅いように見えますが、遅いのは脳です。
 上のような例は特殊なのですが、普通の文章を読む場合でも、目に入るスピードに比べ頭で理解するスピードはとても遅いのがふつうです。
 そのため視線が固定されて、目が疲れてしまうという結果になるので、目が疲れないようにするには、見た文字の理解スピードを上げることが大事です。

読みの手がかり

2006-08-15 23:18:45 | 文字を読む

 文字を読み取れる範囲は視覚的にはっきり分かる範囲と同じではありません。
 図の一番上の行は透明度が低いフィルターがかかっているので何とかいてあるか読めないと思います。
 二行目ははじめの6文字の透明度を少し上げています。 
 三行目は最初の4文字を更に少しだけあげ、4行目は最初の3文字の透明度を更にあげています。
 4行目の段階になると「大草原の小さな家」と読めると思います。
 (「大草原の小さな家」というドラマを知らない人は「大草原の小さ」まで読めて後がわからないということがあるかも知れませんが)
 4行目で文字が読めた後、3行目、2行目、1行目ともどっていってみると、2行目はもちろんのこと、最初の行も読めるようになります。

 何の手がかりもないまま最初の行を見れば、よほど注意を集中してもなかなか読み取ることは出来ませんが、手がかりがあれば何とか読み取れるのです。
 先行する文字とのつながりで自動的に予測されるとか、前に出現した単語と同じであるため分かるとか、はっきり見えなくても分かる場合はあります。
 たとえば右の例では、「薄利多売」とか「名誉挽回」とある文字列がすべてぼやけている場合は読み取りにくいのですが、最初の二文字がはっきり見えればそれが手がかりになって後ろの文字は読みやすくなります。

 文章を読む場合、読み取った単語を一時的に記憶しておかないと文章の意味は分からなくなってしまいます。
 味覚や嗅覚の場合は刺激が強いほど記憶に残りますが、文字の場合は大きな文字とかくっきりした文字でなければ記憶に残らないということではありません。
 文字が小さすぎたり、ぼやけたりした場合は読み取りが難しいというだけで、読みとった後の主な記憶の対象となるのは文章や単語の意味です。
 もちろん文字があまり小さかったり、ぼやけていて読み取りにくければ、文字の読み取りに注意を多くとられるので、意味を理解したり記憶したりするのに妨げになります。
 したがって読み取りやすい文字の大きさとか、明瞭さだけでなく、文字をはっきり見ることの出来る目の中心視野で見る必要があります。
 ところが、はっきり見ようとしてあまり狭い範囲しか見ないと文字や単語のつながりがわかりにくくなり意味の理解が届きにくくなります。
 したがってボンヤリしている周辺部分をも取り込んで見える範囲にする必要があります。


文字の読み取り範囲

2006-08-14 22:33:15 | 文字を読む

 上の図は漢字と仮名を混在させてみたもので、単語や文章として意味を持つものではありません。
 一番上の行は漢字と仮名を交互に並べているもので、この行を見たとき、視線を動かさないで認識できる文字数はどれくらいでしょうか。
 ふつうは漢字なら3、4文字(ひらがなが間に入るので合計5~7文字)ですが、ひらがななら4~6文字(漢字が間に入るので7より10文字)ぐらいでしょう。
 ひらがなだけなら一行すべて読み取れる人もいるかもしれません。
 2行目は漢字ばかりですが、目を動かさずに動じに読み取れる数は4,5文字程度でかな交じりの場合に比べかなり落ちます。
 漢字の場合は目の中心部分で見れば読み取れても、少し中心から離れるとぼやけて見えるため読み取りにくくなります。
 かなの場合は同じくらい中心から離れてぼやけて見えても、読み取ることが出来ます。
 つまりカナはボケに強く。漢字はボケに弱いのです。

 3行目はカナばかりなので、視線を動かさなくても全部読み取れそうな感じなのですが、実際目を動かさないで一つ一つ読もうとするとぼやけて分からない文字があることが分かります。
 全体的に見たときはすべてがひらがなで、両端の文字が同時に見えるので全部認識できているように感じるのですが、一つ一つの文字を読もうとすると、はっきり見えていなかった文字があることが分かります。
 ひらがなばかり並ぶと、似たような曲線が並ぶことになり、一つ一つの文字に注意を余分に払うことになるので、視野が狭まってしまうためです。

 両端の文字が一番遠いのに同時に見ることが出来るのは、隣接する文字が一つとなるのでそのぶん紛れが少ないためです。
 このことは、一番下の行のように隣に漢字がある場合で見るとさらにハッキリします。
 両端のひらがなは注意を特に両端に向けなくても目の中に入ってきて読み取れます。
 ところが漢字の場合は下から2行目のように、両端にあっても同時に認識しにくいのはやはり漢字は線が複雑でぼやけて見えたら読みにくいからです。
 
 このようにしてみると、漢字かな混じり文は漢字とひらがなが区切りをつくるのでお互いの文字を認識視しやすることが分かります。
 ひらがなも漢字も連続しすぎると読みにくくなり、とくに漢字の連続は詠みにくいのがわかります。
 一般的には漢字が文字全体の35%程度が読みやすいとされていますが、上の図の例でも大体そういえることが実感できると思います。


見えていると感じても識別できない

2006-08-13 23:01:28 | 文字を読む

 上の図を全体的に見るとすべての黒丸がはっきり見えているような感じがします。
 特定の黒丸に注意を集中しないで、全体をゆっくり見ればすべての黒丸が目に入ります。
 ここで一番上の行に注意を向けてみると全体を見たときと比べ、下のほうはややぼやけて見えますが、上の黒丸ははっきり見えるはずです。
 ところがこの一行の黒丸がいくつあるかを、視線を固定したまま数えようとすると、たいていの人は数えられません。
 真ん中の二つに注意を向けそこから右または左に向かって順番に数えようとすると、目を動かさなければだんだんにぼやけて数えられなくなります。
 一行の黒丸全体を見たときははっきり見えた感じがしたのに、そのまま目を動かさずに数えようとするとうまくいかないのです。
 一行がはっきり見えたと感じたときの見え方は、数を数えられるような見え方ではなかったのです。
 数を数えようとする時には、数える部分に注意を集中するので、他の部分よりはっきり見える必要があるからです。

 本のように、黒丸の変わりに文字が表示された場合は、全体的に文字があるのは分かりますが、一つ一つの文字を識別するのは困難です。
 黒丸の場合は、黒丸だと思っているので一つ一つを確認しなくても見えたと感じていられるのですが、本の文字の場合は一つ一つが違うので、全部が見えているとは感じにくいのです。
 
 実は上の図の場合、すべてが黒丸ではなく外側の一部は五角形だったり、六角形だったりします。
 しかも黒丸の一部には白い点がついているものがあります。
 全体を見たとき白い点のある黒丸があるなということは感じたかもしれませんが、どれだけあったかと聞かれれば、3、4個ぐらいと答える人が多いのではないでしょうか。
 実際は14個あるのですが、視線を動かして見回さなければほとんど見落とすのです。
 黒丸のように単純な図形だから目を動かさず、全部見て取れると感じていたところが、実際は思ったほどよくは見えていなかったのです。

 細かい違いを見分けようとして部分に注目すると、その部分は特にはっきり見えますが、はなれた部分はぼんやりとしか見えなくなります。
 全体的に見ているときは、はっきりと見えるところと、見えないところの差が少なくなっているということで、すべての部分がはっきり見えているということではないのです。
 ただ訓練をすれば、はっきりは見えていなくても違いを感じ取ることは出来ますので、誰でもごく狭い部分しか識別できないというわけではありません。
 たとえばよく知っている人の写真であればボンヤリ写っていても、簡単に見分けられるように、はっきり見えなければ識別できないということではありません。