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語源分析と擬態語

2006-08-01 23:57:03 | 言葉とイメージ

  日本語では言葉を分解してみると、分解された部分が意味を持っていて、実は合成語だったと分かるようなものがあります。
 「みちびく」は「みち」と「ひく」で「道に引く」ということで出来たことばだとか、「あがく」は「あ」と「かく」で「足(あ)掻く」だといった具合です。
 ある程度の長さの言葉はこのように分解すると、このようにして出来た言葉だということを思いつくことが出来ますが、短くなると難しくなります。
 山、川、花、町、谷、泣く、掻くといったような言葉の語源は何かとか、目はなぜ目というか、歯はなぜ歯というように短くなるほど説明しにくくなります
 山は「やま」で「や」+「ま」ではないだろうと直感的には思うのですが、「やま」、「しま」、「はま」、「ぬま」、「はざま」、「そま」などと並べると「ま」が共通していて、「ま」は場所を表し、「ま」が「ば」に通ずる。
 といったような説明もあるので、ひょっとするとすべての言葉が最後まで分解されて意味づけられるかもしれないと思ったりするのではないでしょうか。

 日本語には「歯、葉、日、火、穂、帆、矢、間、真、身、見、実」など一音節の単語が結構あるだけでなく、「カラス」、「カケス」、「ウグイス」、「キギス」などとならべると「ス」になにか共通の意味があるだろう、などと考えて一つの音に意味の要素を当てようとするようになります。
 目はなぜ目というかというような問題になると、答えようはなくなるのですが、目という字が目の形からつくられたという連想からすれば、「め」という音にも目をイメージさせる要素があるのではないかと考えたくなるのは無理からぬことです。
 
 このような語源追求はどうしても頓知というかパズルのようなもので、アイデアしだいでいろんな解釈が可能で、実際にどうだったかとは別に、「このように考えると面白い」とか分かりやすいということを重点に説明されます。
 なかには音が類似していれば意味も類似するというような形での説明もあります。
 「老い」が「親」の語源になったというのは正しいらしいのですが、上(かみ)から君
(きみ)、「黒(くろ)し」から「烏(からす)」になったというようになれば連想クイズのようなものです。
 
 ここまで語源を追求するならば、擬音語とか、擬態語についてもなぜそのような表現になるのか説明を試みてもよかったはずなのですが、そうはならなかったようです。
 擬音語、擬態語は感覚的なものですから、音義説のようなものは相性がよいはずだと思うのですが、避けられてしまったようです。
 もしかすると、擬態語や擬音語に応用しようとすると音義説の無効性が明らかになってしまうためなのかもしれません。