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ウソのほうが分かりやすい語源

2006-08-07 22:22:11 | 言葉とイメージ

 本当の語源説明より、類推による語源説のほうが分かりやすいという場合があります。
 たとえば、塩梅という言葉は塩と梅で調味するということだと、広辞苑にありますが、これはこじつけなのだそうです。
 堀井令以知「語源をつきとめる」によれば、「あんばい」のもとの形は「あわい」という和語で、「間」という語に近い意味だったのだそうで、 機械の調子を、機会のアワイなどともいったそうです。
 漢字を当てたために誤解を生ずるようになったというのですが、現代人にはこの誤解のほうが分かりやすいのではないでしょうか。

 「たわし」は「束子」と書くのは束ねるという意識が働いたためで、本来は「手藁(てわら)」からできたことばで、「たわら」となるところを「俵」と同音衝突するのを避けて「たわし」となったものだといいます。
 これも本来はどうあれ、手藁(てわら)よりも束子(たわし)のほうが納得しやすいでしょう。
 もともとの語から離れて、漢字を当てられたために、漢字からの類推で語源説が出来る例は数が多いそうでうが、漢字は意味を暗示するのでそれだけ説得力が強いといえます。

 ところが漢字自体も字源説というものがあり、本来の意味とはちがったもっともらしい説明のほうが信じられるという現象があります。
 図の例では「民」という字は目を針で突いてつぶして見えないようした象形文字で、逃亡を防ぐために目をつぶされた奴隷を表しているというのですが、後には「目が見えない」ということは「ものが分からない」ということで人民を指すとしています。
 「民は由らしむべし。知らしむべからず」などというのは、民衆は言っても分からないからただ従わせるしかないという意味です。
 「正」、「政」、「武」などももとの文字は、むきつけな意味で、飾ったり正当化する感覚はないのですが、後からの解釈は洗練されたというか、偽善的というか政治的、道徳的な解釈になっています。
 
 「正」は「一」と「止」でできた字で、「止」が足跡を表すので基準線まで進みぴたりと止まる」という意味で「ただしい」ということだとしています。
 「正」が「ただしい」ならそれにつながる「政」は「正義を行うことだと合理化できるというわけです。
 「武」も「戈(ほこ)」と「止」で「武器を止める」ということで「平和をもたらすことだ」というように説明して、戦争で買った側の正当化をしています。

 字源にしろ、語源にしろ、歴史的な変化のもとをたどった説は現代から見れば直感的には分かりにくく、後から出来た類推とか、ためにするこじつけ、頓知のようなものの方が分かりやすく説得力があります。
 歴史的語源は変化してしまった結果が現在の姿なのでわかりにくく、いわゆる民間語源のようなものは現在の語感をもとに、意味づけをするのでこの方が納得しやすいという皮肉な結果となっています。