60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

読み間違えの原因

2006-08-09 22:57:38 | 文字を読む

 一行目の中ほどに欝(うつ)鬱(うつ)という字がありますが、この字は複雑なので、細部を確認しようとすると両端の「会」「応」がはっきりとは認識できなくなります。
 複雑な文字を読み取ろうとすると実効視野がせまくななるのです。
 注意を集中しなければならないと、周りには注意が分配されないので、周りはぼやけてしか見えなくなるのです。
 両端の「会」や「応」を見て認識しようと注意を向けると、こんどは真ん中の「欝」、「鬱」はぼやけるために、なんという字かも分からなくなってしまいます。
 真ん中の字を桜とか杉のように画数の少ない字にすると、文字が小さくても両端の文字読み取れます。
 
 三行目のように「欝」「鬱」の周りに配置した文字が略字でなく、いわゆる正字である場合は、離れた文字だけでなくすぐ隣の文字ですらはっきりとらえることが困難になります。
 「餘」とか「與」であれば「會」「應」を何とか認識できるので、複雑な字であればあるほど読もうとすると注意が奪われ周りがわからなくなるのです。
 四行目のように文字が小さくなれば、真ん中の字は更に読み取りにくくなるので、周りの字が認識しづらくなります。

 ところで、ほんとうは、二行目の場合も「桜」や「杉」に注意を集中すれば周りの字を認識しにくくなるのですが、ジッと見なくても文字を読めたと感じているために、それ以上注意を向けていないのです。
 つまり文字を読むときには、一つ一つの文字について細かく一点一画まで注意を向けて確認しているわけではなく、大雑把に見て理解しているということです。
 一つ一つの文字に細心の注意をはらって読んでいたのでは、とんでもなく非効率な上にすぐに疲れてしまいます。

 「直截」の読みを「ちょくさい」とする誤りは「截」が「連載」の「載」にそっくりなためでしょうが、よく見れば違うのですから、よく見ていないのです。
 「病膏肓」を「やまいこうもう」と読む間違いは「肓」を「盲」と思ってしまったのでしょうが、単に字が似ているだけでなく「亡」という部分がが共通しているためです。
 「亡」の下の部分が「こう」と読むのは「酒肴」「肯定」などの例があると指摘されればの納得できるのですが、つい「盲」と混同するのです。
 「やまいこうもう」などはどちらかといえば「耳から入った」言葉で、全体の意味を漠然と理解していても、文字との対応を意識しないで間違い読みを受け入れてしまった人のほうが多いでしょう。
 間違った読みを覚えていれば、文字を見て改めて文字の細かな違いに気がつくことなく、誤った読みを踏襲することになります。
 この場合漢字の個別の意味と関係なしに言葉をうけいれているのですから、常に個々の感じに注意をしているとは限らないのです。