そのころ、世に数まへられぬ古教授ありけり。

この翁 行方定めず ふらふらと 右へ左へ 往きつ戻りつ

6月18日(金)その2

2010年06月18日 | 昔日記
 付属高校へ授業に行く。私は十数年前、ここで教諭をしていた。だからE学部のO教授(この人も当時、職員室で私と机を並べていた)がコーディネ―タになっている高大連携授業というのに、文学部からただ一人協力しているのだ。自家用車を運転して練馬の高校へ。

 環八がやけに混んでいたのではらはらしたが、ちょうどよい時間に到着した。かつての同僚もどんどん退職して、顔見知りは皆白髪か頭が薄くなっている。50分授業を連続2コマ、「中世の旅と和歌」というテーマで行なった。

 ロシア語(この高校は第二外国語の授業がある)のK教諭と、同僚K教授の噂話をした。ここの出身の学生が大学のK教授の授業でけしからんことをして、それをK教諭に伝えたら大騒ぎになったという愉快?な事件があったのだ。だから、年に1度K教諭にお目にかかると、話題はいつも同じになる。

 そういえば昨日、大学の秘書課から電話が掛かってきたのだった。ちょうど大学院の研究指導中で、こちらから掛け直しますと断ってそのままになっていた。T常任理事に頼まれている九州の高校での講演の件だろうと、付属高で電話を借り秘書課に掛けてみた。T常任のご依頼の件ですか?と尋ねると、そうではなくて、××××理事から留学生向けに英語で日本文化について講演して欲しいとの依頼らしい。即座に、二つ返事?で(笑)お断りした。T常任理事以外の大学本部役職者に、私がサービスするいわれは全くない(T常任理事は過激派学生どもに吊るしあげられた時助けてくださった命の恩人なのである)。

 大学には用がないので、自宅へ直帰。すると明日の「どげだ会」の幹事から電話があり、お前は2次会から来いと言われた。学会の委員会があるため、到着が中途半端な時間になると伝えておいたのだ。了解!と返事をする。 

6月18日(金)

2010年06月18日 | 昔日記
 17日午前中の卒論指導には全員が顔を揃えた。就活はもう目途が立ったそうで、これからは少し卒論に集中して欲しいと思う。昼食は「たかはし」の刺身定食。やっぱりここが世界で一番美味いと世辞を言っておいた。

 大学院の研究指導の時間は、梅ちゃんの壮大な研究計画を拝聴する。P先生から、このままだと何年かかるか分からないよと、まことに適確なご指摘をいただく。もう梅ちゃんの世代では、3年で博士号が取れるように計画を作らなければダメである。

 学生の研究会に付き合い、その後、さきの戦争の時一緒に戦地へ行った同僚教授の戦友と飲みに行く。人聞きがあるから、近場は避けて、イデアルが旧店舗に開いた「Les Cave Prive」へ。もう我等のごとき年寄りには、食い物はどうでもよくて、酒だけ飲めればよいのだ。追っ付けもう1人の戦友も到着し、3人で結局赤ワイン3本を開けてしまった。

 まあ、話題は自然、学長選の裏話や学部長選の背景ということになる。また、仲間の病気についての話は、聞くにつけ人ごとではない。なんだか酔っぱらい、ずいぶん遅くなった。

 それで、電車に乗って、気が付いたら終着駅だった。既に終電は出てしまった。タクシーを拾おうかとも思うが、えいままよと歩きに歩く。8㎞も歩けば自宅なのだ。シアトルのことを想えば何でもない。軍歌を歌いながら、おいちに、おいちにと進軍した。深夜にJRの駅5つ分を歩いた計算になる。ああ、歩兵出身でよかったわい。

 結局信じられるのは、一緒に死線をくぐった戦友である。歩兵の本領、ここにあり。私なんぞは、敵のトーチカを破壊して拝領した功五級金鵄勲章が、何よりの自慢だもんね。