日々、土器実測(仮)

発掘された遺物の図化作業メインのお仕事ブログのはずが、日々の徒然・スピ話ばっかりになっちゃってる日記。

辞めてしまえば

2011年02月13日 | Weblog
ブログを書く事で、心にわだかまっている事を吐き出す代わりにしているところがあります。
でも、自分にとっての疑問や不信感を何とも思わない人もいる、そう思うと、如何に正気な気持ちでも、それを読む事で不快な思いをする人もいるのだろうなと思います。
が、やはり書かずにはいられないのですよね。
子供の頃から云いたい事が云えず、ぐっと飲み込んでばかり来て、言葉で口で、上手く自分の気持ちを伝える事が出来ません。
その内、云えないなら書けばいいと云う事に気付き、それからはどうしても書く事に走ってしまいます。
もう長い長い時間そうして来ました。

プレゼントに当選したセッションで、表現すると云う事が浮かび上がりました。
書く事は私にとって表現の一つ、と云うより、今はほぼ全てと云ってもいいかもしれません。
だからと云って、ブログを書く事が表現すると云う事に繋がるかどうかは分かりません。
何せ不平不満に愚痴が殆どだから。
ですが、これを辞めてしまったら自分が壊れてしまうのではと思います。

ちゃんと消化出来ない事が、何時までも心にわだかまったままになっていて、その事が頭から離れなくなってしまうと云う、悪い心癖があるのだと思います。
それを書くと云う行為で、少しでも外に出せるような気がする。
消化を助けてくれるような気がするのです、多分勝手な思い込みだとは思いますが……。


1歩踏み出せば動き出す、世界が変わると云われますが、物事が停滞していてそれを何とかしたいと思う時、或いは夢を叶えたいと思う時、どうしたら1歩を踏み出した事になるのでしょう。
とても行けそうもない場所へ行ってみたいと思う時、その場所への旅行のパンフレットを取り寄せるだけでもその旅に近づくと云われますが、そう云う事であれば私だってと思う事が沢山あります。
でも現実には動き出す気配もない、どうにもならない事ばかり、一体何がいけないんだろうと思ってしまう。

他人のせいにしてはいけないと云われます。
全ては自分の責任、気付かなくても自分に原因がある、薄っすらであってもこの事を理解する事は出来ます。
でも、何をやっても上手く行かない、動き出したとは云えない状態のままでいる時、この原因は何なのかと考えてしまう訳です。
私は指導霊とやらから散々な事を云われましたが、結局こう云った存在がよしと認めない限り、実際には動き出さないのではと思えてなりません。
幾ら自分でやったと思っても認めるべきものがよしと云わなければダメ、今迄の経験からはそうとしか思う事が出来ないのです。
でもこれすら自分の責任だと云われたら、自分で自分が動き出す事を認めていないと云う事になります。
心を決めて行動を起こしてすら、実は自分が認めていないと云うのならどうしていいのか分からない、自分で自分をコントロール出来ないと云う事ですよね。
だとしたら、それを出来ない人間は、何をやっても何度やってもダメと云う事になる。
自分で気付く事の出来ない心の奥底の問題だとしたら尚更、どんなに頑張ったところで、そのステージにいるまま次の場所へは移動が出来ません。

よく波動の同じものを引き寄せると云われます。
ですから、考え方を変えれば良いものを引き寄せられると云う理屈ですが、現実にいるステージが変わらない限り、今いる場所以上のモノや事、人を引き寄せることは不可能とも云えますよね。
考え方を変えただけでステージが上昇するのだとしたら、私だってとっくに変わっているはずですが、何かが足りない、やり方が悪いと云われます、こう云う事を云うと何時も……。
私のようなバカにもちゃんと理解出来る説明はないものかと思いますが、あなたの心がけが悪いで終わりそうですね。
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