史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「江戸の思想史」 田尻祐一郎著 中公新書

2012年08月26日 | 書評
江戸時代というと、均質で画一的なイメージがあるが、殊に思想史という側面で見ると、実に多様多彩である。
現代と比べれば何かと制限が多く、為政者を批判したことが明らかになれば命の危険もあるし、信教の自由も大いに制約されている。とはいえ、いかに強大な権力であっても、人々の頭の中の思考までコントロールすることはできない。本著「江戸の思想史」はそのことを雄弁に語っている。この時代、人々は息をひそめて過ごしていたのかというと、必ずしもそうではない。
強烈に時の権力を批判したのは、江戸中期の医者・思想家安藤昌益(1703-1726)であった。安藤昌益は、夫婦が一緒になって耕作し、夜は交わって子を成す。これを「直耕」生活と呼んだ。直耕生活の集合体である「安衣安食」の社会を理想とし、それを破壊し、阻害する知識人、聖人、為政者を激しく批判した。やはりこの著作は公表されることはなかったものであるが、苛政の現実を批判的に見ていた人が存在したことを物語っている。
京都出身の堀景山(1730-1801)は、本居宣長の儒学の師である。「ひたすらに武威を張り輝やかし、下民をおどし、推しつけへしつけ帰服させる」武家を批判した。いかにも武家嫌いの京都人らしい感覚である。
江戸後期ともなると、公然と権力批判が現れる。その典型例が大塩平八郎(中斎)であった。天保八年(1837)、飢饉に苦しむ人民がいる一方で、役人の不正と、その役人と結託して暴利をほしいままにする豪商に怒り、大塩が蜂起した。大塩は「天命を奉じ、天誅を致し候」という檄文とともに起った。大塩平八郎の叛乱は一日で鎮圧されたが、幕府や知識人に与えた影響は大きかった。
幕末の志士の思想的背景には、国学の流れがあり、もう一つには水戸の国家論があった。更に蘭学や伝統的な儒学の流れが加わった。その中にあって、水戸学は最初から過激な尊王攘夷を主張したのではなく、会沢正志斎の「新論」(これも志士を興奮させたベストセラーであったが)も、民心を定め、忠孝を一致させ、国難に当たらなければならないという秩序論であった。
江戸時代の様々な思想の流れが、吉田松陰に結集された。松陰が草莽崛起論を唱えた背景には、「国の恩義」に応えようという思考がある。その末に、征夷大将軍が職務を全うしないのであれば廃されてもやむをえないという過激な倒幕論に行き着いた。松陰という強烈な個性が導き出した議論であるが、一方で二百五十年という長い江戸時代が生み出した一つの結論だったようにも思われる。

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