史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

碓氷峠

2012年08月18日 | 群馬県
(熊野神社)
 梅雨の時期の史跡訪問の成否は、天候によって左右される。この日も軽井沢方面の天気予報が「曇り」となっていたのを確認した上で出かけたが、特に山間部の天気は変わりやすい。坂本宿から二百を越えるカーブを通過して熊野神社に到達したときには、ミストシャワーのような細かい雨が降り出した。熊野神社は、長野県と群馬県の県境に位置する古社である。本宮は県境に鎮座している。


熊野神社

 神社下の駐車場の脇に朱色で着色された小さな祠がある。赤門稲荷と呼ばれている。往時ここには社家曽根家の赤門屋敷があり、屋敷内にあった稲荷社だけがここにポツンと残されたかっこうである。ここにあった屋敷には、加賀前田藩の赤門に倣って朱塗りの屋敷門が造られていた。和宮も赤門屋敷で休憩をとったと伝えられる。


赤門稲荷

(碓氷川水源地)


明治天皇峠御膳水

 今回、早朝八王子を出立して熊野神社を訪ねたのは、「相楽総三とその同志」(長谷川伸著 中公文庫)に詳しく記載されている金原忠蔵こと竹内廉之助(あるいは廉太郎とも)の首塚や「金原藪」を訪ねることが主目的であった。神社周辺にはいくつか茶屋があるが、そのうちの一つに入って金原藪について質問した。茶屋には「碓氷峠 歴史と観光」と題された小冊子(四百円)を販売しており、そこにはわずかながら金原藪のことも記載されている。茶屋の物知りおばさんによれば、金原藪(そこに金原忠蔵の墓碑もある)は、碓氷川水源地からさらに百メートルほど行かなくてはいけないが、現在はそこに至る径は藪に覆われ、とても行き着かないという。たまに遺族の方が当地を訪れ、慰霊祭などを行っているらしいので、道が無いわけでは無さそうであるが…。
 おばさんに礼を行って、まずは水源地まで下りてみる。明治十一年(1878)九月六日、明治天皇は東山北陸御巡幸の際に、碓氷峠を越え、しばし休憩をとった。この際、この水が供されたことを記念して碑が建立されている。
 おばさんがいうように水源地から先は、道らしい道もなく、金原藪は断念せざるを得なかった。
 大木四郎、金原忠蔵(竹内廉太郎)らが率いる赤報隊の一部が碓氷峠熊野神社に到達したのは慶應四年(1868)二月十一日のことであった。その時既に安中藩、高崎藩、吉井藩等は降伏の使者を碓氷峠の陣に送っていた。ところが、赤報隊は偽官軍であるという報が流れ、小諸藩や御影の農兵などが派遣された。
 金原忠蔵は、追分宿に滞在していたが、そこを小諸藩兵らに襲撃され、銃創を負って動けなくなった。同志大木四郎の介錯で命を断ったという。
 金原忠蔵の首級は、熊野神社の曽根出羽守の門前の雪の中に同志らの手によって埋められたが、それを曽根出羽守は上州(群馬県)側の藪の中に埋め直した。以来、その場所は“金原林”あるいは“金原藪”と呼ばれるようになった。せめて墓標のある場所まで行けるように整備してもらいたいものである。このままでは、歴史の彼方に埋もれてしまいそうである。

(忠魂碑)


忠魂碑

 残念ながら金原藪には行き着くことができなかったが、旧中山道を百五十メートルほど行くと、昭和三十六年(1961)に建立された金原忠蔵の忠魂碑がある。文字はよく読み取れないが、実は追分宿郷土館にこの石碑の拓本がある。

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