史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

田町 Ⅱ

2012年08月05日 | 東京都
(済海寺)


寛裕院殿(久松勝成)之墓


従五位久松君定昭(久松定昭)之墓

 雨の週末、済海寺を再訪した。ターゲットは、伊予松山藩主久松(松平)勝成、定昭の墓である。

 久松勝成は、天保三年(1832)に生まれた。実父は高松藩主松平頼恕。安政三年、松山藩主に就き、財政の立て直しに着手したが、万延元年(1860)に神奈川台場の建設、元治元年(1864)、慶應二年(1866)には二度におよぶ長州征伐に出兵し、藩財政は窮乏の極みに達した。慶應三年(1866)一旦隠居したが、翌慶應四年(1868)五月、再度襲封。久松姓に戻して、新政府に十五万両献金するなど、新政府に接近した。維新後は藩知事に就任したが、明治四年(1871)、廃藩置県により退官した。大正元年(1912)八十一歳で死去。

 勝成の跡を継いだ定昭の実父は、津藩主藤堂高猷。慶應三年(1867)九月、二十三歳のとき勝成の隠居に伴い松山藩主に就き、幕府の老中に推されたが、ほどなく辞任した。鳥羽伏見では藩兵を率いて幕軍に加わったという理由で、朝敵として追討を受けたが、その年の五月、藩主を辞任して勝成に譲った。明治四年(1871)、勝成のあとを継いで松山藩知事に任じられた。明治五年(1872)、二十八歳で死没。

(薬王寺)


薬王寺


山内家之墓 雙松院香渓日昇居士
(山内香渓の墓)

会津藩士で、書家としても有名な山内香渓の墓である。幼名は数馬といい、香渓は号。鳥居栄五郎の三男。山内香雪に才を認められ、養嗣子となった。戊辰戦争の時には江戸で諸藩の間を奔走した末、品川沖から箱館に向かう途中、銚子沖で船が沈没したため、間部詮勝のもとに潜伏中捕えられた。大正十二年(1923)八十三歳で死去。


香雪山内先生之墓

 香渓と同じ墓域に養父山内香雪(書家)の墓もある。

(寶徳寺)


寶徳寺

松山戦争(八日市場)での敗戦後、虎口を脱した水戸藩諸生党市川三左衛門は、江戸に潜伏した。潜伏した先は、三女徳が嫁いだ三田寶徳寺であった。市川は、久我三左衛門という変名を用いていた。その後、青山百人町の剣道師範島上源兵衛宅に潜伏しているところを、明治二年(1869)二月、水戸神勢隊によって捕縛された(「市川勢の軌跡」市村眞一著 茨城新聞社)。

(歯科医学教育発祥の地)


歯科医学教育発祥之地

 伊皿子交差点の一角に東京医科歯科大学により歯科医学教育発祥の地碑が建てられている。明治二十三年(1890)、米国留学をおえて帰国した高山紀齋が、我が国最初の歯科医学校、高山歯科医学院を設立した。有名な野口英世も教壇に立ったという。のちに東京歯科医学院、東京歯科医学専門学校へと継承され、現在の東京歯科大学へと受け継がれた。

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秩父 Ⅱ

2012年08月05日 | 埼玉県
(大陽寺)


大陽寺

 清雲寺で殺害された大炊御門尊正らが目指した大陽寺を見学するため、秩父大滝へ車を走らせた。秩父市街も十分山の中にあるが、大滝はそこからさらに山奥に入る。国道140号線(彩甲斐街道)を山梨県方面に進行していると、大陽寺への分岐点に出会う。ここから大陽寺まで未だ八㌔以上、山の中を走らなくてはならない。
 この寺は、古くは袋養寺と書かれたが、いつしか大陽寺という漢字を充てられるようになった。女人禁制の山が多い中で「東国の女人高野」と称され、多くの女性参詣客が訪れた。私が訪問したときも、女性客が何人も逗留しており、それと知らずに闖入した私はまるで異星人のようであった。
 大炊御門尊正は、この寺を仮御殿にしようと企図していたというが、どうしてこのような山奥深い場所を拠点にしようとしたのだろうか。

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小鹿野 Ⅱ

2012年08月05日 | 埼玉県
(十輪寺)


十輪寺

 吉田柳助の実家吉田家は、武蔵七党児玉党の後裔という名流である。代々小鹿野村の名主を務めていたが、小鹿野村が請西藩の領地であった関係から、柳助も請西藩に仕えた。戊辰戦争では藩主林忠崇に従って従軍し、参謀を命じられた。柳助は、最後まで藩主に従って各地を転戦したが、慶應四年(1868)九月に庄内藩に派遣されて、その後の消息は不明である。庄内で戦死したとも、病死したとも言われる。後日、小鹿野村の実家に柳助の遺髪と愛刀が届けられたと伝えられる。菩提寺十輪寺には、嫡男信太郎によって建てられた墓が残されている。


吉田柳助の墓

(馬上)


馬上

 小鹿野馬上は、酒井右駒の出身地であり、墓があるというので、行ってみた。相当な僻地である。結論からいうと、酒井右駒の墓は発見できなかった。
 酒井右駒は、小鹿野村馬上出身の剣客で、甲源一刀流のほか、馬庭念流を修めた。江戸で彰義隊が結成されたという報に接すると、右駒は周囲の反対を押し切って上野に馳せ参じた。上野戦争の三日前に官兵と争って重傷を負い、翌月の六月二十五日に没したとされる。

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東金 Ⅱ

2012年08月05日 | 千葉県
(関寛斎生家跡)


関寛斎の生家


吉井家(関寛斎生家)

 東金市の東中という集落の中に面足神社という小さな神社があり、その向かいに関寛斎の生家ある。東金市郷土研究愛好会の立てた「関寛斎の生家 (幼名豊太郎)」という看板が目印である。立派な門構えを備えた豪邸であるが、寛斎が生まれたときからこれほどの邸宅だったのだろうか。
 関寛斎が農家吉井家の長男としてこの地に生まれたのは、文政十三年(1830)のことである。四歳で母と死別し、母の姉の嫁ぎ先である前之内の関俊輔(素壽)の養子となり、以来関姓を名乗った。

(常覚寺)


常覚寺

 生家跡から三㌔程離れた常覚寺には、寛斎の養父関素壽の墓がある。
 関素壽は儒学者であり、製錦堂という私塾を立ち上げて近隣の子弟に教授した。養父素壽は、寛斎に「質素、勤勉を信条とし、貧しくとも志は高く持て」と教え、寛斎の人間形成に大きな影響を与えた。


素壽關翁之墓


関素壽之碑

 関素壽の墓の後ろには、関素壽之碑が建立されている。題額は、時の文部大臣で関寛斎とも所縁の深い蜂須賀茂韶。撰文は佐藤舜海。
常覚寺には、関寛斎の妻で素壽の姪である君塚愛子の実家である君塚家の墓があるというが、実は墓地には、君塚家の墓が少なくとも四つ存在しており、どれだ君塚愛子の生家のものか特定はできず。

(製錦堂跡)


製錦堂跡

 常覚寺から少し離れた君塚家の前に製錦堂跡の駒札が立っている。常覚寺の周辺を探し歩いたが、なかなか製錦堂に出会わず、犬の散歩をしていたオバサンに聞いたところ、製錦堂はご存知なかったが、「君塚さんのうち」というとすぐに教えてくださった。
 関素壽は、儒者であり、私塾製錦堂を開いて近隣の子弟を集めて教育した。素壽は、礼儀作法をはじめ、質素倹約と志を高く持つことを説いた。寛斎は、幼くして母と死別したため、母の姉の嫁ぎ先である関家に養子に入り、素壽の薫陶を受けた。素壽は、寛斎に「権力を恐れず、富貴をうらやむことなく、人生を堂々を生きよ。気概を持て」と教育し、人格形成に大きな影響を与えたと言われる。

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銚子

2012年08月05日 | 千葉県
(高崎藩陣屋跡)


旧陣屋跡

 銚子市陣屋町に一角に「旧陣屋跡」と修理された石碑がある。石碑の背後は広い公園となっているが、江戸期この一帯には高崎藩の陣屋があったとされる。


新町大手奉行屋敷 渡辺崋山筆

 利根水運が江戸に通じるようになって以降、日本海や東北各藩の物産が銚子港経由で江戸に運ばれることになった。これを受けて幕府では、享保二年(1717)、親藩の中から高崎藩を銚子の統治に当たらせた。以後、廃藩置県を迎えるまで約百五十年間にわたって、高崎藩では銚子に陣屋を置き、郡奉行と代官を派遣した。
 文政八年(1825)八月、渡辺崋山は江戸を発って四州(武蔵・常陸・上総・下総)巡りの旅に出た。このとき崋山が銚子で描いた「新町大手奉行屋敷」が、「四州真景図巻」に残されている。

(黒生海岸)


黒生海岸

 銚子市の黒生(くろはい)海岸では、大小様々な岩礁を見ることができる。とんび岩という奇岩の隣りに幕府軍艦美加保丸の慰霊碑がある。これを見るために、遥々と銚子までやってきた。


とんび岩


美嘉保丸遭難者慰霊碑

 慶應四年(1868)八月二十六日、榎本武揚率いる幕府艦隊八隻が箱館に向かう途上、銚子沖で暴風に遭い、そのうちの一隻美加保丸が座礁沈没した。この事件によって乗組員十三人が遭難し亡くなった。
 ここにある慰霊碑は、明治十五年(1882)に地元有志により建立されたものである。

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江戸川橋 Ⅲ

2012年08月05日 | 東京都
(獨協中学・高校)


西周先生之像

 獨協中学・高校の校舎の前に初代校長西周の胸像がある。この日は日曜日だったので、正門は閉まっていたが、守衛のオジサンに頼んで一枚だけ写真を撮らせてもらった。

 西周は、津和野藩士であったが、江戸に出て蘭学を学ぶうちに、幕府に取り立てられて蕃書調所教授手伝並となった。文久二年(1862)にはオランダに留学し、帰国後は京都の徳川慶喜に近侍して、ブレーンとして活躍した。維新後は兵部省に出仕し、以後軍部官僚として頭角を現すとともに、民選議員設立論争にも参加するなど、思想家としても活躍した。同時に西洋哲学を我が国に紹介するなど、日本近代哲学の父と呼ばれている(「哲学」という訳語は西周の考案したものという)。
 獨協中学、高校の前身は、ドイツ文化移入を目的とした独逸学協会(総裁北白川宮能久親王)であり。その一事業として独逸学協会学校が設立され、初代校長に西周が就任した。

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護国寺 Ⅱ

2012年08月05日 | 東京都
(護国寺)


益田家之墓

 前日、小田原の鈍翁in西海子を訪ねた折、護国寺に益田孝の墓があることを知り、早速、護国寺を再訪した。益田家の墓は、山縣有朋の墓に近いところにある。墓の前には、益田孝の胸像が置かれている。益田孝は、嘉永元年(1848)の生まれで、亡くなったのは昭和十三年(1938)。実に九十年に及ぶ長い生涯で、益田孝がその真価を発揮したのは明治九年(1876)に三井物産の社長に就任して以降のことであろう。従って、幕末人と呼ぶには少々違和感があるが、実は文久三年(1863)の遣欧使節の一員としてパリに滞在している。当時、益田進という名で、十六歳のときのことであった。


益田孝胸像


ジョサイア・コンドルの墓
(Josiah Conder)

 ジョサイア・コンドルは、1852年ロンドン生まれ。大学で建築学を学び、明治十年(1877)明治政府の招きで来日した。工部大学校(東京大学の前身)教授として学生を指導する一方で、鹿鳴館、ニコライ聖堂、岩崎邸、旧古河邸など、多くの建築物を手がけ、我が国近代建築の基礎を築いた。また、辰野金吾、片山東熊、曽禰達蔵といった俊才を育成した。日本を愛したコンドルは、日本人女性(クメ)を妻とし、ともにこの墓に眠っている。

(豊島ヶ岡墓地)


豊島ヶ岡墓地

平成二十四年(2012)六月十七日、先ごろ亡くなられた三笠宮寛仁親王の一般拝礼が執り行われた。失礼ながら特に三笠宮親王に思い入れがあったわけではなく、この機会に普段は公開されていない豊島ヶ岡墓地に進入することが目的である。ちょっと不純な動機ながら、一応、拝礼を済ませ、墓所の中を歩いた。しかしながら、ほかの皇族の墓地には近づけないようになっており、残念ながらどこに有栖川宮熾仁親王や北白川宮能久親王らの墓があるのか分からないままであった。

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御茶ノ水 Ⅲ

2012年08月05日 | 東京都
(小栗上野介邸跡)


小栗上野介ここに生まれる

 久しぶりに御茶ノ水の小栗上野介邸跡(YMCA会館)を訪ねると、区により「小栗上野介ここに生まれる」という説明が新たに設置されていた。

(明治大学)


「権利自治・獨立自治」

 明治大学御茶ノ水キャンバスに、矢代操、岸本辰雄、宮城浩蔵という三人の創業者のリリーフと、彼らが普及を志した「権利自治・独立自治」の言葉を刻んだ記念碑が建てられている。矢代ら三名は、それぞれ藩を代表して貢進生として大学南校に学び、その後、そろってフランスに留学した。帰国後、明治法律学校を創立したのが、明治大学の前進である。

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