(旧島原藩薬園跡)
史跡 旧島原藩薬園跡
この薬園跡は、島原藩主松平家の命により、シーボルトの門人、賀来佐一郎、藩臣飯島義角らによって、弘化三年(1846)から嘉永年間にかけて、島原城内から移転造園された薬草園である。薬園を囲む石垣、薬園方詰所跡、薬圃石垣などの遺構がよく残されている。昭和四十九年(1974)から四次にわたる発掘調査により石垣遺構や薬園方詰所跡を含む居住区を中心に復元整備された。今も薬草が栽培されている。

薬園跡から眉山を臨む
賀来佐一郎(佐之)は、豊前国出身で、シーボルトに学んだ名医で、島原藩に招かれて藩医となり、医学校である済衆館の教授をつとめ、種痘の普及に努めた。当時としては珍しく人体解剖を実施して、解剖絵図を残すなど、多彩な活躍をみせた。
(島原城跡)
現在、島原城が建つ辺りは、森岳といい、その昔、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍蔵寺隆信軍を撃破した場所である。この地に五条(現・奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築いた。元和四年(1816)に着工し、四~七年の歳月をかけて完成。同時に島原城下町も整備されたという。
島原城天守閣
層塔風総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して、要所を三層櫓で固め、外郭は四キロメートルにわたって矢狭間をもつ練塀で囲んだ。四万石の大名には過分な城郭である。以来、松倉氏、高力氏、松平氏、戸田氏、再び松平氏と四氏十九代の居城となった。寛永十四年(1637)の島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、寛政四年(1792)の島原大変(大地震とともに眉山が崩壊したことによる土砂災害と津波災害。死者は一万五千人と記録される)にも耐えた。維新後廃城となったが、昭和三十九年(1964)天守閣が復元され、その後も巽櫓が再建されるなど、次第に往時の姿を取り戻しつつある。
幕末の島原藩主は松平忠和。将軍慶喜の弟ということもあって、藩論は初め佐幕であったが、下級士族の不平が、大和天誅組や水戸天狗党の反乱への参加となって現れた。また、尊王派「激烈組」による中老松坂正綱襲撃事件も起きた。しかし、強硬派の動向は藩内に浸透せず、大勢は穏健派にあり、倒幕活動は十分に展開しなかった。
最後の藩主松平忠和の書
松平忠和は水戸藩主斉昭(烈公)の子で、慶喜の弟である。尊王倒幕に急速に傾きつつある情勢下、島原藩では幕藩体制維持を藩是として文久二年(1862)、忠和を藩主に迎えた。二度にわたる長州征伐にも出兵。藩兵は小倉城攻防に参戦したり、軍勢を豊後高田に待機させたりと、幕府側に同調的であった。慶応三年(1867)、慶喜が大政奉還を表明したとき、藩主は病床にあり「城内では大吟味。昼夜相詰めて…色々評論に相及び…」という有様であった。ようやく家老板倉勝直が上京して、朝廷に忠誠を近い、藩兵百五十九名が大砲二門を率いて戊辰戦争に参加した。島原藩兵は、明治元年(1868)十二月まで東北を転戦し、四名の戦死者を出した。

日蓮上人像(喝! 北村西望作)
城内には、郷土出身の彫塑家で、長崎の平和記念像で有名な北村西望記念館(巽櫓)がある。
(武家屋敷跡)
武家屋敷の入口付近に宮川度右衛門(たくえもん)の屋敷があった。幕末の当主宮川度右衛門守興は、種子島流荻野派の砲術師範として多くの弟子を育てた。嘉永三年(1850)十二月四日、長州藩士吉田松陰が兵学の研鑽の旅の途中、ここを訪れた。松陰は「西遊日記」にで次のとおり記録している。
――― 宮川云、直發砲ニ非サレハ功ヲ成スヿ(こと)ナシ。故ニ近頃葛論碩ヲ造ル。
(訳・宮川がいうには、直発砲でなければ功を成すことはない。だから近頃はカノン砲を造っている)
吉田松陰来訪の地
島原の武家屋敷は、土塀と石垣に囲まれた屋敷が整然と並び、道の中央を清流が流れる。この用水道は、寛文九年(1669)に設営され、飲料としても利用された。江戸時代、この一帯には鉄砲組の下級武士の住まいがあったため、鉄砲町と呼ばれた。

武家屋敷跡
(保里川家)
保里川家は島原城下を南北に貫く島原街道に面して建っている。かつて旅籠として営業していて、島原を訪れた吉田松陰も宿泊したという。
保里川家
(鯉の泳ぐまち)
鯉の泳ぐまち
島原は古くから湧き水が有名で、特に新町一帯は湧き水が豊富で、町内の清流に鯉を放流し、て観光客を集めている。
(稽古館跡)
藩校稽古館跡
城から少し離れた下の丁の住宅街の一角が藩校稽古館跡である。稽古館は、第七代島原藩主松平忠馮(ただより)によって、寛政四年(1792)眉山の大崩落によって地震と津波の大惨禍の直後ではあったが、学術振興のために寛政五年(1793)に開かれた藩校である。開校に当たり藩主は「自今、士族卒の男子齢八歳より入校、学に就くべし。業に奉仕する者は勤務の余暇登校し、会読講義を聴講すべし。」と布令を出している。次の八代忠候(ただよし)は、天保五年(1834)、敷地を五百六十坪、建物を百四十七坪に拡張し、江戸から碩学川北温山を招いて、大いに内容の充実に努めた。これが刺戟となって、藩内の各地には百六十七カ所の寺子屋ができ、これら寺子屋の指導も果たしつつ、廃藩置県まで子弟の教育に寄与した。

史跡 旧島原藩薬園跡
この薬園跡は、島原藩主松平家の命により、シーボルトの門人、賀来佐一郎、藩臣飯島義角らによって、弘化三年(1846)から嘉永年間にかけて、島原城内から移転造園された薬草園である。薬園を囲む石垣、薬園方詰所跡、薬圃石垣などの遺構がよく残されている。昭和四十九年(1974)から四次にわたる発掘調査により石垣遺構や薬園方詰所跡を含む居住区を中心に復元整備された。今も薬草が栽培されている。

薬園跡から眉山を臨む
賀来佐一郎(佐之)は、豊前国出身で、シーボルトに学んだ名医で、島原藩に招かれて藩医となり、医学校である済衆館の教授をつとめ、種痘の普及に努めた。当時としては珍しく人体解剖を実施して、解剖絵図を残すなど、多彩な活躍をみせた。
(島原城跡)
現在、島原城が建つ辺りは、森岳といい、その昔、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍蔵寺隆信軍を撃破した場所である。この地に五条(現・奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築いた。元和四年(1816)に着工し、四~七年の歳月をかけて完成。同時に島原城下町も整備されたという。

島原城天守閣
層塔風総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して、要所を三層櫓で固め、外郭は四キロメートルにわたって矢狭間をもつ練塀で囲んだ。四万石の大名には過分な城郭である。以来、松倉氏、高力氏、松平氏、戸田氏、再び松平氏と四氏十九代の居城となった。寛永十四年(1637)の島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、寛政四年(1792)の島原大変(大地震とともに眉山が崩壊したことによる土砂災害と津波災害。死者は一万五千人と記録される)にも耐えた。維新後廃城となったが、昭和三十九年(1964)天守閣が復元され、その後も巽櫓が再建されるなど、次第に往時の姿を取り戻しつつある。
幕末の島原藩主は松平忠和。将軍慶喜の弟ということもあって、藩論は初め佐幕であったが、下級士族の不平が、大和天誅組や水戸天狗党の反乱への参加となって現れた。また、尊王派「激烈組」による中老松坂正綱襲撃事件も起きた。しかし、強硬派の動向は藩内に浸透せず、大勢は穏健派にあり、倒幕活動は十分に展開しなかった。

最後の藩主松平忠和の書
松平忠和は水戸藩主斉昭(烈公)の子で、慶喜の弟である。尊王倒幕に急速に傾きつつある情勢下、島原藩では幕藩体制維持を藩是として文久二年(1862)、忠和を藩主に迎えた。二度にわたる長州征伐にも出兵。藩兵は小倉城攻防に参戦したり、軍勢を豊後高田に待機させたりと、幕府側に同調的であった。慶応三年(1867)、慶喜が大政奉還を表明したとき、藩主は病床にあり「城内では大吟味。昼夜相詰めて…色々評論に相及び…」という有様であった。ようやく家老板倉勝直が上京して、朝廷に忠誠を近い、藩兵百五十九名が大砲二門を率いて戊辰戦争に参加した。島原藩兵は、明治元年(1868)十二月まで東北を転戦し、四名の戦死者を出した。

日蓮上人像(喝! 北村西望作)
城内には、郷土出身の彫塑家で、長崎の平和記念像で有名な北村西望記念館(巽櫓)がある。
(武家屋敷跡)
武家屋敷の入口付近に宮川度右衛門(たくえもん)の屋敷があった。幕末の当主宮川度右衛門守興は、種子島流荻野派の砲術師範として多くの弟子を育てた。嘉永三年(1850)十二月四日、長州藩士吉田松陰が兵学の研鑽の旅の途中、ここを訪れた。松陰は「西遊日記」にで次のとおり記録している。
――― 宮川云、直發砲ニ非サレハ功ヲ成スヿ(こと)ナシ。故ニ近頃葛論碩ヲ造ル。
(訳・宮川がいうには、直発砲でなければ功を成すことはない。だから近頃はカノン砲を造っている)

吉田松陰来訪の地
島原の武家屋敷は、土塀と石垣に囲まれた屋敷が整然と並び、道の中央を清流が流れる。この用水道は、寛文九年(1669)に設営され、飲料としても利用された。江戸時代、この一帯には鉄砲組の下級武士の住まいがあったため、鉄砲町と呼ばれた。

武家屋敷跡
(保里川家)
保里川家は島原城下を南北に貫く島原街道に面して建っている。かつて旅籠として営業していて、島原を訪れた吉田松陰も宿泊したという。

保里川家
(鯉の泳ぐまち)

鯉の泳ぐまち
島原は古くから湧き水が有名で、特に新町一帯は湧き水が豊富で、町内の清流に鯉を放流し、て観光客を集めている。
(稽古館跡)

藩校稽古館跡
城から少し離れた下の丁の住宅街の一角が藩校稽古館跡である。稽古館は、第七代島原藩主松平忠馮(ただより)によって、寛政四年(1792)眉山の大崩落によって地震と津波の大惨禍の直後ではあったが、学術振興のために寛政五年(1793)に開かれた藩校である。開校に当たり藩主は「自今、士族卒の男子齢八歳より入校、学に就くべし。業に奉仕する者は勤務の余暇登校し、会読講義を聴講すべし。」と布令を出している。次の八代忠候(ただよし)は、天保五年(1834)、敷地を五百六十坪、建物を百四十七坪に拡張し、江戸から碩学川北温山を招いて、大いに内容の充実に努めた。これが刺戟となって、藩内の各地には百六十七カ所の寺子屋ができ、これら寺子屋の指導も果たしつつ、廃藩置県まで子弟の教育に寄与した。
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