史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

平戸

2015年07月18日 | 長崎県
(亀岡城跡)
 平戸は、思わずそこに住んでいる人たちに嫉妬したくなるほど、「別天地」と呼ぶのが相応しい美しい街であった。ことに平戸大橋辺りから眺める平戸城は、抜群である。これを見るだけでも、はるばるこの地を訪れる価値がある。


亀岡城跡

 松浦家二十六代鎮信は、慶長四年(1599)、亀岡に日の岳城を築いた。しかし、豊臣秀吉と親交が深かった松浦家は、徳川家康から疑いの目で見られたため、鎮信は疑いを晴らすため日の岳城を焼却し、平戸六万一千七百石を守った。以来、藩主は約九十年間を御館で過ごすが、元禄十七年(1704)、三十代藩主棟(たかし)の時、平戸城(亀岡城)の再築を開始し、約十五年の歳月を費やして享保三年(1718)に完成した。平戸城は明治六年(1873)廃城となるが、昭和三十七年(1962)平戸市により復元されている。


亀岡城(平戸大橋から)

 亀岡城址に沖禎介像、それに沖禎介・横川省三顕彰碑が建てられている。
 沖禎介、横川省三ともに明治期の諜報活動家で、明治三十七年(1904)、日露戦争開戦前夜、ロシアにおける諜報活動、ことに輸送路破壊活動に携わり、ロシア軍に捕らわれて、ハルピンで処刑された。沖禎介は平戸出身。横川省三は、盛岡出身であった。


沖禎介像


愛国の士 沖禎介 横川省三顕彰碑


中山愛子像

 亀岡神社社務所前に中山愛子の像が建てられている。
 中山愛子は、明治天皇(祐宮)の生母中山慶子(よしこ)の母で、平戸第三十四代藩主松浦清(静山)の第十一女。慶子が懐妊すると、中山家では産所を建てて準備し、皇子誕生後は、慶子の父中山忠能が養育掛(里親)に任じられ、祐宮が四歳で御所に移るまで忠能、愛子と生母慶子の手元で育てられた。生母慶子の躾は相当厳しかったといわれる。


亀岡城天守からの眺望

 亀岡城天守からの眺めも最高である。

 城内の展示も興味深い。吉田松陰の入門書(複製)は、萩藩における吉田家の山鹿流に対する来歴を説き、今回入門するにあたり、「執事(山鹿万介高紹)の門下に遊び、大いに本源を究め」たいと意思を述べたものである。


吉田松陰入門書

(積徳堂跡)


積徳堂跡


積徳堂

 積徳堂は、山鹿素行が浅草田原町に開いた道場を、その孫高道が延享二年(1745)にこの地に移したものである。第二十九代平戸藩主松浦鎮信(天祥)は、江戸において山鹿素行と深く交わり、自らも門弟となって山鹿軍学を修めた、その縁で素行の弟の平馬(義行)、孫の高道が平戸藩士となり、山鹿の学統を平戸に伝えることになった。以来、明治維新に至るまでの約百二十年間、積徳堂は平戸藩における学問、兵学の中心道場であった。山鹿素行関係の資料は山鹿文庫と呼ばれる。
 萩藩の山鹿流軍学師範の家吉田家の当主となった吉田松陰は、嘉永三年(1850)、二十一歳の時平戸に遊学した。平戸では山鹿万介の門下に学び、滞在五十日のほとんどは藩臣葉山左内(鎧軒)に従学して、八十冊を越える書物を読み、そのほとんどを筆写している。中でも左内から借りた陽明学の書「伝習録」は、その後の松陰の思想形成に大きな影響を及ぼしたとされる。

(紙屋跡)
 吉田松陰が平戸滞在時に宿泊したという紙屋の跡は、現在工事中であった。近所の売店のオジサンに聞いても、観光案内所の女性に確認しても
「工事中で、小さな石碑だけが残されている」
という返事であったが、私だけに見えないのか、最後まで「小さな石碑」を確認することはできなかった。


紙屋跡

 松陰が平戸を訪れたのは、松陰が「西遊日記」に書き残したところによれば、嘉永三年(1850)九月十四日のことである。
――― 直チニ葉山左内先生ノ宅ニ至リ、拝謁シ、ソノ命ニ依リテ紙屋ト云フニ宿ス。
 松陰は葉山左内から借りた書物を遅くまでかかって筆写した。松陰は平戸滞在中、左内から書物を借りては、紙屋でひらすら筆写している。


(松浦史料博物館)


松浦史料博物館


松浦史料博物館

 松浦史料博物館は、亀岡城が破却された約百年間、藩主の御館として利用された居館跡である。石垣と階段は当時のままである。

(田助港)
 田助港は、承応二年(1650)、四代平戸藩主松浦鎮信(天祥)が、平戸港の副港として整備した港である。長崎出島のオランダ人も江戸に向かう途中、田助港に寄港したという。十八世紀に入ると、平戸藩では捕鯨や鮪漁、鰤漁が盛んになり、田助港も繁栄を迎えた。
 田助港入口にある小島はハゲ島と呼ばれる。西郷隆盛や高杉晋作らは、釣りと称して島に渡り、倒幕の話をしたと伝えられる。


田助港

(永山邸)


明石屋

永山邸はもと廻船問屋「明石屋」で、明治三十六年(1903)の火災で焼失したが、翌年には焼失前そのままに再建されたという。当時、田助の青年多々良孝平は、各地の維新の志士たちを迎え入れ、特に長州の高杉晋作とは親交も深く、国の将来について大いに語り合ったという。永山家の家伝では「当時、多々良孝平の屋敷であった「角屋」(永山邸の向かい、現在郵便局のある一帯)が表向きの志士たちの会合の場所で、明石屋が密談の場所、緊急時の隠れ家として使用されていた。隠し部屋や緊急避難用の脱出口があった。西郷隆盛、高杉晋作、桂小五郎らのほか、名前を伏せた坂本龍馬かこの家の二階で密議をした」と言い伝えられている。

(浜尾神社)


浜尾神社


維新之英傑會合之地

 田助港浜尾神社境内に、維新の英傑会合の地碑が建てられている。もともと永山邸(多々良孝平氏宅)前にあったが、移設されたものである。
 碑文によれば、文久慶應年間、各藩の王政復古の志を抱いた勤王の士が当地にも来往するようになった。薩摩の西郷、長州の高杉、桂、肥前の大隈らの英傑がこの地で会合して密かに謀議を持ったという。
 ただし、西郷と高杉、桂、大隈らがこの地で会合を持ったという記録は文献では確認できず、当地における言い伝えの域を出ない。身を隠して集まるとすれば、あり得そうな場所柄ではあるが…。

 これで今回の長崎県下の史跡の旅は終了。翌日からは佐賀県の史跡を訪ね歩く。
 長崎県といえば、対馬も一度訪ねたい場所である。いずれ対馬にも足を伸ばしてみたい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 佐世保 | トップ | 「松陰の歩いた道」 海原徹... »

コメントを投稿

長崎県」カテゴリの最新記事