史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

新上五島

2015年07月18日 | 長崎県
(江ノ浜郷共同墓地)
 初日の好天とうってかわって、二日目は朝から雨であった。長崎から五島へ渡る高速船「ぺがさす」は最高時速八十キロメートル、福江港まで一時間半程度で結ぶ。前線の影響で船は大きく揺れた。酔い止めを飲んでいなければ、寸分も持たなかっただろう。青白い顔をしてトイレに駆け込む乗客が続出した。
 隣に座った老夫人は新潟から団体旅行参加者であった。過去には東海道日本橋から京都三条、琵琶湖一周を果たした健脚の持ち主であった。私より一回り以上もお年を召しているが、世の中には元気な人がいるものである。長崎の坂を二~三回上り降りしただけでゼェゼェしている我が身が情けない。
 奈良尾から龍馬ゆかりの江ノ浜郷まで三十七キロメートル。レンタカーで一時間弱の距離である。途中、信号でほとんど止まることもない。雨以外は大きなストレスなく江ノ浜郷に行き着いた。


ワイルウェフ号遭難の碑

 ワイルウェフ号遭難の碑は、共同墓地内にある。風化を防ぐために屋根のついたコンクリート製の小屋の中に納められている。墓碑には、ワイルウェフ号とともに海の藻屑と消えた乗組員の名前が刻まれる。中央の細江徳太郎という名前が池内蔵太の変名である。

 池内蔵太は、天保十二年(1841)、土佐城下小高坂村の生まれ。性明敏にして沈着知勇の人と言われる。文久元年(1861)、江戸に出て安井息軒に学び、諸藩の志士と交わり、武市瑞山、大石弥太郎、河野敏鎌らと共に主唱して土佐勤王党の結成に尽力した。ひとまず帰国後、文久三年(1863)、藩命により江戸、さらに大阪に至ったが、保守的藩論に飽き足らず、同年脱藩して長州に赴き、五月十日の長州藩の外国艦船砲撃に遊撃隊参謀として参加した。八月の天誅組の挙兵には洋銃隊長として参加し、五条代官所を襲い、九月二十四日鷲家口の敗戦ののち潜行して大阪・京都に赴き、十月、三田尻に遁れた。元治元年(1864)禁門の変に忠勇隊に属して参加したが、再び長州に敗走した。長州にあって海軍の必要性を説いていたが、のち坂本龍馬の長崎亀山社中に入り、慶応二年(1866)ワイルウェフ号の乗組士官となった。しかし、同年五月二日、ユニオン号に曳航されて長崎を出帆し、鹿児島に向かう途中、五島塩屋崎で嵐に遭い、ワイルウェフ号は沈没し、船と運命をともにした。年二十六。

 池内蔵太は、慶応元年(1865)二月十四日、下関市街で真木菊四郎(久留米藩脱藩)が暗殺され、その犯人という噂を立てられた。暗殺の理由は、真木が父・真木和泉の遺志を継いで、薩摩藩との和解に奔走したからだという。菊四郎の叔父真木直人(外記)は池の命を狙った。この頃、桂小五郎ら長州藩首脳部は薩摩との提携を模索し始めた時期であり、池の立場は危うくなった。これを知った龍馬は、池を下関から連れ出し、亀山社中の同志に加えた。池が細江徳太郎という変名を用いていた背景には、こうした事情があったのであろう。

(龍馬ゆかりの地広場)


祈りの龍馬像

 海に面した場所に龍馬ゆかりの広場が作られている。海に向かって手を合わせる龍馬像は、「祈りの龍馬像」と呼ばれている。
 慶応二年(1866)五月二日、この沖合の潮合崎にてワイルウェフ号が遭難し、乗組員十六名のうち十二名が命を落としている。この中には船将高泉十兵衛(鳥取藩士黒木小太郎)や池内蔵太らが含まれている。
 この時龍馬は、伏見寺田屋で受けた傷を治療するために鹿児島に滞在中であったが、即座に亀山社中の仲間を連れて当地を訪れ、自ら碑文を書き、同志の霊を弔うために資金を添えて建碑を依頼した。


「龍馬ゆかりの地」碑

 写真を撮ったら、すぐさま踵を返して奈良尾に戻る。十二時過ぎに奈良尾に到着したため、早々にレンタカーを返却し、福江まで往復の乗船券を購入した。計画外であったが、午後は福江の街を歩くことになった。

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