(稲佐山)
稲佐山は幕末に関連した史跡というわけではないが、神戸・函館に並ぶ夜景の名所である。今回の長崎旅行では、外せないスポットの一つであった。稲佐山における夜景の写真を撮るためだけに、三脚を持参したのである。
この時期、山頂の駐車場は夜間閉鎖されてしまうので、山頂まで徒歩で十五分程度かかる手前の駐車場にレンタカーを預けることになる。山頂に着いたのは、午後六時過ぎであり、まだ日没まで時間があった。
三脚にカメラをセットして、あとはひたすら日が沈むのを待つ。この日の日没は午後七時前後である。日が沈んだから直ぐに夜景が出現するというわけではなく、見頃を迎えるのは七時二十分過ぎである。八時にはレンタカーを返却しなければならないので、あまりゆっくりはしていられない。ギリギリまで待って撮影したのが、冒頭の夜景写真である。確かに大変見事な夜景であった。しかし、この写真は結果的に三脚を使わずに撮影したものである。わざわざ東京から重たい三脚を持参したが、結果的には無駄であった。
(悟真寺)
悟真寺
悟真寺は、唐人墓地がある関係もあって、朱塗りの中華風の山門が目印である。
外国人墓地(中国人墓地)
長崎にはグラバーの墓のある坂本国際墓地や大浦国際墓地など、外国人墓地が複数存在しているが、中でも最も古い歴史を持つのが、悟真寺の外国人墓地である。最初にここに外国人が葬られたのは、慶長七年(1602)、唐人墓が作られたことまで遡る。さらに在職中に死亡した出島オランダ商館員の墓が設けられ、開国後はロシア人、ポルトガル人、アメリカ人、イギリス人、ロシア人も葬られることになった。合わせて千体以上がここに眠っているという。
個別に調べれば、きっとユニークな履歴を持った人物の墓があると思うが、今回は時間もなく、単に訪ねたというにとどまった。
(三菱重工長崎造船所)
長崎製鉄所跡
安政二年(1855)海軍伝習所が開設されると、蒸気船の修理を行う施設も必要となった。そこで安政四年(1857)、飽の浦に長崎鎔鉄所の建設が着手され、機関士官ハルデス以下の指導のもと整備が進められた。敷地内には鍛冶場、鋳物場、工作場などの諸施設が建てられ、工作機関類の動力には蒸気機関が用いられた。万延元年(1860)に上棟式が行われ、その時、長崎製鉄所と改称された。文久元年(1861)落成。維新後は官営となり、長崎造船所などいくつかの改称を経て、明治二十年(1887)、三菱社に払い下げられ、翌年、三菱造船所(現・三菱重工㈱長崎造船所の前身)と改称された。
(四郎ヶ島砲台跡)
四郎ヶ島砲台跡
今は半島となっているが、神ノ島とその沖合にある四郎ヶ島はその名のとおり島であった。そこに砲台が築かれたのは嘉永四年(1851)というから、ペリー来航以前のことになる。当時、神ノ島、四郎ヶ島とも佐賀藩領であり、ここに砲台を築いたのも佐賀藩の手によるものであった。現在、砲台跡を偲ばせる石垣を見ることができる。
稲佐山は幕末に関連した史跡というわけではないが、神戸・函館に並ぶ夜景の名所である。今回の長崎旅行では、外せないスポットの一つであった。稲佐山における夜景の写真を撮るためだけに、三脚を持参したのである。
この時期、山頂の駐車場は夜間閉鎖されてしまうので、山頂まで徒歩で十五分程度かかる手前の駐車場にレンタカーを預けることになる。山頂に着いたのは、午後六時過ぎであり、まだ日没まで時間があった。
三脚にカメラをセットして、あとはひたすら日が沈むのを待つ。この日の日没は午後七時前後である。日が沈んだから直ぐに夜景が出現するというわけではなく、見頃を迎えるのは七時二十分過ぎである。八時にはレンタカーを返却しなければならないので、あまりゆっくりはしていられない。ギリギリまで待って撮影したのが、冒頭の夜景写真である。確かに大変見事な夜景であった。しかし、この写真は結果的に三脚を使わずに撮影したものである。わざわざ東京から重たい三脚を持参したが、結果的には無駄であった。
(悟真寺)
悟真寺
悟真寺は、唐人墓地がある関係もあって、朱塗りの中華風の山門が目印である。
外国人墓地(中国人墓地)
長崎にはグラバーの墓のある坂本国際墓地や大浦国際墓地など、外国人墓地が複数存在しているが、中でも最も古い歴史を持つのが、悟真寺の外国人墓地である。最初にここに外国人が葬られたのは、慶長七年(1602)、唐人墓が作られたことまで遡る。さらに在職中に死亡した出島オランダ商館員の墓が設けられ、開国後はロシア人、ポルトガル人、アメリカ人、イギリス人、ロシア人も葬られることになった。合わせて千体以上がここに眠っているという。
個別に調べれば、きっとユニークな履歴を持った人物の墓があると思うが、今回は時間もなく、単に訪ねたというにとどまった。
(三菱重工長崎造船所)
長崎製鉄所跡
安政二年(1855)海軍伝習所が開設されると、蒸気船の修理を行う施設も必要となった。そこで安政四年(1857)、飽の浦に長崎鎔鉄所の建設が着手され、機関士官ハルデス以下の指導のもと整備が進められた。敷地内には鍛冶場、鋳物場、工作場などの諸施設が建てられ、工作機関類の動力には蒸気機関が用いられた。万延元年(1860)に上棟式が行われ、その時、長崎製鉄所と改称された。文久元年(1861)落成。維新後は官営となり、長崎造船所などいくつかの改称を経て、明治二十年(1887)、三菱社に払い下げられ、翌年、三菱造船所(現・三菱重工㈱長崎造船所の前身)と改称された。
(四郎ヶ島砲台跡)
四郎ヶ島砲台跡
今は半島となっているが、神ノ島とその沖合にある四郎ヶ島はその名のとおり島であった。そこに砲台が築かれたのは嘉永四年(1851)というから、ペリー来航以前のことになる。当時、神ノ島、四郎ヶ島とも佐賀藩領であり、ここに砲台を築いたのも佐賀藩の手によるものであった。現在、砲台跡を偲ばせる石垣を見ることができる。
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