(永保寺)
永保寺本堂
虎渓山永保寺は、鎌倉末期、夢想疎石らが、この地の深山幽谷に魅せられて庵を結んだのが始まりで、中国廬山の虎渓の風景にあやかり、虎渓山と名付けられた。暦応二年(1339)には北朝の光明天皇の勅願寺となり、室町時代には守護土岐氏の保護により、三〇余の僧坊が立ち並んで隆盛を極めた。しかし、戦国時代には再三の戦乱で荒廃し、現在まで塔頭として存続しているのは、保寿院、続芳院、徳林院の三つのみとなっている。
和宮は上洛の途中、永保寺に滞在した。和宮は永保寺からわざわざ「一呑みの清水」(現・御嵩町)から清水を取り寄せ、点茶を楽しんだと伝えられる。
六角堂(霊擁殿)
梵音巌上の六角堂には、千体地蔵が祀られている。滝の水は、虎渓山北西にある「しでこぶし」群生地付近の湧水を集めたものという。
無際橋と観音堂
永保寺庭園は夢想疎石の初期の作庭。西から迫る長瀬山や、前を流れる土岐川の清流奇岩を借景としている。古来より「虎渓三十六景」と称され、多くの文人墨客に親しまれてきた。国宝に指定されている観音堂は、観音閣、水月場ともいわれる。正和三年(1314)の建立で、永保寺ではもっとも古い建物となっている。
(西浦庭園)
西浦庭園
明治天皇行在所蹟
西浦庭園は、幕末から明治にかけて美濃焼や町の発展に貢献した西浦圓治の庭園で、かつて離れ座敷が建てられていた。この離れ座敷は、明治十三年(1880)六月、明治天皇下街道巡幸の際に行在所となった。この巡幸には、伏見宮、太政大臣三条実美をはじめとするお供があり、千人を超える大行列であった。その夜は、岐阜提灯を五〇張以上灯し、数千匹のホタルを放って天皇の旅情を慰めたという。明治天皇は「木曽路以来、初めて賑々しい景況である」と喜んだ。
離れ座敷の建物は、表門とともに大正時代の初め頃、京都嵯峨の宝筐院へ移築され、今も書院として残されている。
明治天皇行在所旧蹟
庭園内には、三基の聖蹟碑が建てられている。明治天皇行在所旧蹟碑は岸信介の書。
明治天皇行在所聖蹟
西浦庭園
明治天皇御駐輦地
明治天皇駐輦地碑は元帥東郷平八郎の筆。
(御幸公園)
御幸公園
公園は犬の便所ではありません
御幸公園は西浦庭園から少し離れた場所にある。この地には、西浦圓治(1806~1884)が、後年を過ごした別邸があり、西浦庭園と呼ばれた名園があった。
西浦家は、江戸時代からの大きな陶器商で、西浦焼と呼ばれる陶磁器の生産に乗り出すなど、美濃焼の品質向上とその名を世に広めることに尽力した。
西浦庭園は、江戸時代末期に作られたもので、滝を備えた池を中心に古樹が茂り、各所に奇岩が配されて、大変静かな趣があったといわれる。第二次大戦後、庭園は分割して売却され、今はわずかに石組みが往時を偲ばせるのみとなっている。
御嵩町の愚渓寺に茶室が移築保存されているという。