史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

佐世保

2015年07月18日 | 長崎県
(楠本端山旧宅跡)
 ゴールデンウィークに長崎に行ってきたと話すと、必ず「ハウステンボスに行ったのか?」と質問をうける。何も当然混雑が予想される観光地に好きこのんで身を投じるほどヒマではない。道路が渋滞するので、できることならハウステンボスの近くを通ることも避けたかったが、楠本端山旧宅を訪ねるには、ハウステンボスへ通じる国道205号を使わざるを得ず、案の定、この道は渋滞気味であった(東京周辺の渋滞を想えば、大騒ぎするほどのものではなかったが…)。


楠本端山旧宅跡

 楠本端山と碩水兄弟は、幕末平戸藩士の家に生まれた儒学者である。端山と碩水の旧宅は、父忠次右衛門(養斎)が、天保三年(1832)に建てたもので、門を入ると三カ所に玄関があり、右から来客用、家族用、使用人用に分れ、部屋には二間続きの座敷が二組もある。さらに儒教の祠堂を備えるなど、江戸時代後期の平戸藩士の家に儒教の祠堂を合わせ持った貴重な建物である。


鳳鳴書院

 楠本端山は、弟の碩水および門人の近藤義郷、浜本必強、多数の同志とともに明治十五年(1881)、私塾として鳳鳴書院を設立した。もともと鳳鳴書院は、この場所から五百メートルほど北側にあった。端山と碩水は講師となり、監督に近藤、学長に浜本、寮長には書生中から二名が選ばれて運営に当たった。端山らが鳳鳴書院を開設したのは、人材や道徳の教育が目的であった。ここで学ぶ者は、遠く東北地方にまで及び、常に数十人が学び、最終的に鳳鳴書院が輩出した人材は千人を越えたという。そのために「針州の僻地に一大学府出現の観あり」と記録が残るほどであった。現在の建物は昭和五十年(1975)に復元されたものである。

(楠本家墓地土墳群)


楠本家墓地土墳群


端山先生楠本伯子之墓

 端山旧宅を訪ねると、一人の老婦人が掃除をされていた。老婦人に楠本家の墓地の場所を聞いて直ちに向かった。楠本家墓地は、旧宅跡からそう遠くないバス通り沿いにある。
 兄端山は、少年の頃、藩校維新館で学び、のち江戸に留学した。帰藩後は藩校維新館の教授を務め、その後、明治十四年(1881)、針尾葉山で私塾鳳鳴書院を開いた。明治十六年(1883)、端山没後は弟の碩水が引き継ぎ、明治三十年(1897)に閉鎖するまで学問を教授した。
 旧宅の東に楠本家の墓地がある。端山の墓を含む七基が土墳を持つ儒教様式の墓である。特に端山の墓は土墳の前に儒教式墓碑を置き、周囲には斎垣(いがき)を巡らせ、前面には中国風石門と石燈籠を置く典型的な儒教墓となっている。端山は生前、大橋訥庵に儒教墓について教えを乞うており、その教えに従って墓を建てたと考えられる。


楠本碩水先生之墓(右)

(小松屋跡)


藤津屋本館(小松屋跡)

 早岐(はいき)宿は、古くから交通、流通の要衝であった。平戸藩政下にあっては、大村藩領と接する南の関門として重要な位置を占めた。藩主が長崎勤番や参勤交代の折、利用した平戸往還の宿場町として栄えた。現在、本陣跡は産婦人科となっているが、往時をしのぶ門が残されている。
 本陣跡から遠くない場所に、旅宿小松屋跡(現・藤津屋本館)がある。吉田松陰二十一歳の時、平戸に向かう途上、ここに宿泊している。


早岐宿御本陣跡

(江迎中央公園)


吉田松陰腰掛石

 江迎(えむかい)も平戸街道に位置する宿場町である。


江迎郷旧街道驛址

 江迎中央公園に、吉田松陰が腰をかけて休憩したと伝えられる腰掛石がある。
 松陰は嘉永三年(1850)、平戸の葉山鎧軒、山鹿高紹を慕って平戸まで来た。佐世保を経て、平戸に向かう途中、江迎に一泊している。この石のことは松陰の日記にも記されている。当時は困難な徒歩旅行で、やっとのことで庄屋の家に泊めてもらうことになったが、家の中に入る前にクタクタに疲れた身体をしばしこの石に腰掛けて休めたといわれる。

 この日の宿泊は佐世保であった。佐世保は軍港として栄え、今では人口二十五万人を越える、長崎県北部最大の都市となっている。街が妙に活気にあふれていることが少々驚きであった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 島原 | トップ | 平戸 »

コメントを投稿

長崎県」カテゴリの最新記事