史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

函館 青柳町

2013年10月13日 | 北海道
(函館護国神社)


函館護国神社

 箱館戦争後、新政府は官軍戦没者の慰霊のために招魂場を造営した。本殿左手に官修墳墓がある。


招魂場

 招魂場の石碑の揮毫は、清水谷公考によるもの。


官修墳墓

 官修墳墓には、百六十五柱が眠る。


戊辰 薩藩戦死者墓

 四角錐型の墓碑は、薩摩藩が全国に建立した十カ所の合葬墓の一つ。今回の函館旅行で絶対外せないスポットの一つであった。ここを訪ねたことで、私は遂に全国十カ所に散在する戊辰薩藩戦死者の合葬墓を踏破することになったのである(あんまり誰も凄いといってくれないが…)。参考までに同型の合葬墓が建てられているのは以下の十か所である。
① 京都市 相国寺塔頭林光院墓地
② 東京都 永福・大圓寺
③ 栃木県 宇都宮市・報恩寺
④ 新潟県 上越市・金谷山
⑤ 新潟県 新潟市・新潟護国神社
⑥ 山形県 山形市・国分寺薬師堂
⑦ 福島県 白河市・鎮護山
⑧ 福島県 会津若松市・西軍墓地
⑨ 秋田県 秋田市・全良寺
⑩ 北海道 函館市・函館護国神社


斉藤順三郎の墓

 整然と並ぶ墓石の中に斉藤順三郎の墓がある。墓標の表面は摩耗して文字は読みとれない。斉藤順三郎は、八王子千人同心の出で、安政五~六年頃に志願して七飯村に入植したと伝えられる。ようやく軌道に乗った生活を、旧幕軍の箱館進駐によって破壊された。さらに箱館府に動員されて七飯村峠下における戦闘にも参加して怪我を負っている。旧幕軍に恨みを抱く斉藤は、身分を隠して旧幕軍に身を投じ、弁天台場に配属された。斉藤は、明治二年(1869)五月三日深夜、かねて買収していた鍛冶職人の鏑木連蔵に大砲の火門に釘打ちさせ、翌日の戦闘に仕えないように工作した。斉藤はその日のうちに台場を脱したが、連蔵は捕えられ討ち首となった。連蔵の口から斉藤の指示であったことが知れ、新選組が中心となって斉藤を探索した。
 斉藤順三郎が捕えられたのは、三日後の五月七日、場所は八ツ頭(現・谷地頭)であった。新選組は弁天台場の前に逆さに吊し上げ、顔に焼き金をあててから斬首した。遺骸は半日間、さらしものにされたという。

(函館公園)
函館公園は、明治十二年(1879)、イギリス領事ユースデンの提言を受け、地元の豪商渡辺熊四郎など、多くの市民から寄付を募って開園した施設である。園内には市立博物館のほか、動物園も併設されている。


市立函館博物館

 市立函館博物館では、ちょうど「新島襄と幕末の箱館」展を開催していたので、入館することにした。箱館戦争に関する常設展示もあり、見応えがあった。ただし(どうでも良いことながら)、長州藩出身の駒井政五郎を「薩摩藩」としていたのは明らかな誤り。


開陽丸模型


市立函館博物館の展示

 左手の初代箱館奉行の竹内保徳。中央は旧箱館奉行所、右手は弁天台場の写真である。


ハーバー遭難記念碑


箱館通寶銭座跡

 箱館が開港されると、商取引の急増とともに「銭」が不足した。そこで箱館奉行では安政三年(1865)、独自に銭を鋳造した。箱館通宝は、鉄銭で質が悪かったといわれる。


箱館通宝

 市立博物館に展示されている箱館通宝である。


開拓使函館仮博物場(旧函館博物館1号)


函館県博物場第二博物場(旧博物館2号)

 園内には、かつて博物館として使用されていた二つの建物が移設されている。「第1号」は開拓使時代の明治十二年(1879)に開場したもの、左手の「第2号」は明治十七年(1884)、函館県が開館したもので、いずれも明治期の洋風建築である。



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