史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

八戸 Ⅱ

2016年09月09日 | 青森県
(南宗寺)


南宗寺

南宗寺には八戸南部家の墓所がある。ここには初代直房から九代信順までの墓があり、いずれもほぼ同じ形で大きさも変わりがない。


八戸南部家墓所


南部信順墓

南部信順(のぶよし)は、文化十一年(1814)、薩摩藩主島津重豪の五男に生まれ、八戸藩主南部信真の娘鶴子に配されて天保九年(1838)四月、八戸城に入った。維新に際し、八戸藩は去就に迷い、白石同盟に正式には加わらなかったが、野辺地戦争のため一時棚倉への転封が内定するなどして、信順は島津家と宗家盛岡藩との関係で苦しい立場に立たされた。大政奉還後、八戸藩知事。明治五年(1872)年五十九にて没。

(大慈寺)


大慈寺

大慈時は延宝年間(1670年代)の創建と伝えられる。このうち山門は天保二年(1831)の建立。
本堂の裏手に広い墓地があり、この中から目標とする墓を見出すことを考えると一瞬眩暈に襲われたが、根気強く歩けば何とか行き当てることはできる。以下、大慈寺のホームページより引用。


太田廣城之墓

太田広城は天保九(1838)、八戸藩士太田久容の二男として三戸郡角柄折村(現階上町)に生まれた。幼少から柔術、棒術等に優れる一方で、禅も学んでおり、温和な人柄であったと言われている。当時の東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成し、政府軍に対抗していた。八戸藩主信順は薩摩藩主の弟であったが、一藩だけ同盟を抜けるわけにはいかなかった。広城はこの微妙な立場の藩にあって、政府や盛岡その他の藩そして軍との交渉を受け持った。明治六年(1873)、青森県典事。三沢に広沢安任とともに洋式牧場を開き、八戸藩の所有地が国有林になる前に、藩士に分け与えた。明治八年(1875)、官職を辞して東京での六十銀行社員を経て、明治十三年(1880)、北海道に渡り、福山で開拓の指導、奥尻島で戸長を努め、明治三十五年(1902)に郷里に戻った。帰八後は旧藩士の老年会会長、八戸俳諧倶楽部会長を努め、明治四十四年(1911)死去。


大澤家之墓(大沢多門墓)

大沢多門は天保五年(1834)、八戸藩主根井沢悟、れんの長男として現在の八戸市糠塚に生まれた。嘉永3年(1851)、十六歳で根井沢家督五十石を継ぎ第九代藩主信順に仕えた。売市番所詰を皮切りに川口奉行、車台大筒打方や江戸での勝手御用取次ぎなど務め、慶應四年(1868)一月京都守護勤務。野辺地戦争で八戸隊の副隊長として活躍した。その後大沢多門と改名。明治六年(1873)、県の行政区は十大区にわけられたが、そのうち第九大区二小区(現・八戸市)の戸長に任命された。文化的指導者となり、えんぶりの復活、三社大祭の興隆に尽くし、八戸の地域の振興のために半生をささげた。明治三十九年(1906)没。


蛇口家之墓(蛇口伴蔵墓)

蛇口伴蔵は、文化七年(1810)八戸藩士葉山治右衛門、志加の子として出生。文政十年(1827)十八歳のとき九戸郡蛇口村(現軽米町)の蛇口伴蔵の養子となり、伴蔵の孫娘志摩子と婚姻。名を胤年と改めた。二十一歳で江戸勤番を命ぜられ、昌平坂学問所の佐藤一斉の門に入った。また、八戸藩の木崎流砲術指南の立花文助から易学も学んだ。それから一心不乱に倹約と商売に励み「商人侍」とののしられたが、決心を貫きとうし天保四年(1833)、中居林村袖中に畑を求め住居し、莫大な資産家となった。その間藩の役職を馬糧奉行、金奉行、台所奉行と歴任して嘉永六年(1853)には吟味役に任じられ、藩主に「富国強兵策」を建言した。安政四年(1857)、四十八歳で隠居が認められると、八戸藩の広大な土地の利水開発に取り組む。今もその功績を顕彰して世増ダムに伴蔵の像が建てられている。慶應二年(1866)、五十七歳で没。


野村軍記墓

野村軍記は安永三年(1774)に生れた。幼少の頃から文武の道に優れ、人となり豪邁、果断明決の士であったので、兵馬の師範近習役、刀番役、納戸役、大目付、寺社奉行と昇進した。文化十三年(1816)、南部領民と八戸紫和領民との紛争を解決し、その才腕を認められた。当時八戸藩は財政窮乏し、その打開策として発行された紙幣で、物価が高騰し、士民は困窮のどん底にあった。八代藩主信真は深くこれを憂い、藩政改革を志し、文政元年(1818)軍記を藩政改革主任に登用した。軍記は非常の時、非常の措置をとることの許しを受け、私腹をこやす権臣の禄を削り、綱紀を正し、これと結ぶ豪商の財産を没収し商人の増長を戒めた。一方商業資本を巧みに利用し新しい預かり切手を発行して評判の悪い旧紙幣との交換に成功、翌文政二年(1819)には調役所を設けヽ自ら目付となり専売制度を断行した。専売の実をあげるため八戸産の移出に務め、千石船を建造し、有名力士を抱え江戸における八戸藩の名声を高め八戸産の販売を有利にした。文政十二年(1829)の八戸城下大火後の市街地を整理し道幅を広め、文武学校を設立し、藩士に教授した。さらに新羅神社を改築し、敬神の道を教え、馬場を設け、騎射打毬の術を指導した。十二ヶ年にして諸般の面目を一新、藩政改革に見事成功した。「八戸のことは良きも悪しきも軍記さま」といわれるほど八戸のためには仕事をした人物である。天保五年(1834)没。夫人の墓と並んで墓が建てられている。法名望岳舎一英軍記居士。

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