(碧血碑)
碧血碑
碧血とは「義に殉じた武人の血は、三年経つと碧色になる」という中国の故事による。高さ約八メートルの堂々たる石碑で、七回忌に当たる明治八年(1875)五月、榎本武揚、大鳥圭介らによって建立された。祀られた戦死者は八百十五柱を数える。
柳川熊吉翁寿碑
戦後、放置されていた旧幕軍兵士の遺体を侠客柳川熊吉と実行寺の十六世住職日隆が命がけで収容した。柳川熊吉は、子分など六百名を動員して遺体を運び、市内の実行寺、称名寺、浄玄寺(現・東本願寺船見支院)に葬った。
碧血碑の傍らには、柳川熊吉翁寿碑が建てられている。一説には、柳川鍋を商っていたことから、柳川姓を名乗ったともいわれる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/61/30ae971ed0506ebc3ac56a8d520b25c8.jpg)
碧血碑
碧血とは「義に殉じた武人の血は、三年経つと碧色になる」という中国の故事による。高さ約八メートルの堂々たる石碑で、七回忌に当たる明治八年(1875)五月、榎本武揚、大鳥圭介らによって建立された。祀られた戦死者は八百十五柱を数える。
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柳川熊吉翁寿碑
戦後、放置されていた旧幕軍兵士の遺体を侠客柳川熊吉と実行寺の十六世住職日隆が命がけで収容した。柳川熊吉は、子分など六百名を動員して遺体を運び、市内の実行寺、称名寺、浄玄寺(現・東本願寺船見支院)に葬った。
碧血碑の傍らには、柳川熊吉翁寿碑が建てられている。一説には、柳川鍋を商っていたことから、柳川姓を名乗ったともいわれる。
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