(塙保己一旧宅)
塙保己一旧宅
関越道を北上して、本庄市に入ると小さな看板が現れるが、そこに描かれているのが塙保己一である。本庄市出身の有名人と問われても、なかなか思い浮かばないが、その中にあって塙保己一は教科書にも載っている全国区の著名人である。では塙保己一が何をした人かと訊かれると、おそらく本庄市出身者であっても正確に答えられる人は少ないだろう。
史蹟 塙保己一舊宅
塙保己一は延享三年(1746)に武蔵国児玉郡保木野村(現・本庄市児玉町保木野)に生まれた。七歳で失明し、十五歳のとき江戸に出て、当道座(とうどうさ)に入門して、雨富検校の弟子となった。賀茂真淵らにも弟子入りし、学問の道に進んだ。生来の記憶力の良さに加え、弛まぬ努力の結果、国学者としての地位を築いた。国学の研究を進め、寛政五年(1793)には幕府に申し出て和学講談所を創立し、安永八年(1779)から四十一年をかけて「群書類従」を編纂、刊行するなど多大な貢献を果たした。文政四年(1821)には総検校となったが、この年の九月、七十六歳で亡くなった。
贈正四位塙保己一先生誕生地遺跡
本庄市児玉町保木野には、入母屋造り、茅葺二階建ての生家が残されている。塙保己一は、ここで生誕し、幼児を過ごしたもので、保己一の父卯兵衛の代に建てられたものと伝えられている。つまり築二百七十年を越えると推定されるが、今も末裔の方がここに居住しているのは驚きである。
(塙保己一公園)
和學院殿心眼智光大居士
(塙保己一の墓)
塙保己一は、文政四年(1821)に逝去し、四谷の安楽寺に埋葬されたが、明治十九年(1886)に安楽寺の墳墓の土を持ち帰って先祖累代の墓地の西隅に碑を建てて慰霊したものが現在に伝わっている。
塙先生百年祭記念碑
大正十年(1921)、塙保己一没後百年の記念式典が盛大に行われた。この際、全国から寄附を募って塙先生百年記念碑が建立された。題額は渋沢栄一、撰文は当時の東京帝国大学名誉教授芳賀矢一。
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