史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「水戸藩諸生党始末 忠が不忠になるぞ悲しき」 穂積忠著 日新報道

2012年01月11日 | 書評
性懲りもなく、またまた天狗党関連の書籍を買ってしまった。この本がほかと違うのは、天狗党の足あとを追ったのではなく、天狗の宿敵、市川三左衛門を主役に据えた点である。
この小説の序盤は、例によって天狗党と諸生党との骨肉の争いを描くことに費やされる。単に「天狗党と諸生党」というが、元治元年の水戸藩の戦争の実態は、かなり複雑である。いわゆる天狗党とは水戸藩尊攘激派のこと。京都に駐屯した本圀寺党も、激派と一脈を通じていた。天狗党も一枚岩ではなく、倒幕を目指す田中愿蔵らの一団も所属しているし、藩外から加勢した人たちもいる。これに対し、尊攘派にも穏健な鎮派が存在する。さらにこの内訌戦には、藩主徳川慶篤の意を受けた徳川頼徳の率いる大発勢が加わり、一層複雑になった。藩内には柳派と呼ばれる無党派もあった。そして諸生党(門閥派)―――
天狗党から見れば、不倶戴天の敵であるが、彼らにも彼らなりの正義があった。この本で斉昭が市川三左衛門ら門閥派幹部に対し「その方らは世臣の家柄なれば、世情騒がしき時、常に忠勤を尽くせ」と協力を求めたとしている。これが、諸生党が自らを正統と任ずる根拠となっているのである。勿論、天狗党は斉昭の標榜した「攘夷」を実現するのが、自分たちの使命と信じている。彼らはいずれも斉昭の「遺訓」を信奉すると主張しながら、異なる道を歩み始めた。もとをたどれば、水戸藩の混乱は、藩主斉昭そしてその跡を継いだ慶篤のリーダーシップ不在に起因しているといえよう。
この小説の題名の由来は、市川三左衛門の辞世といわれる一句である。

君がため捨つる命は惜しまねど
忠が不忠になるぞ悲しき

市川三左衛門は、天狗党からの憎しみを一身に集めることになった。この本を読めば、そのわけも頷ける。徳川頼徳を切腹に追い込んだのも市川の進言によるものであるし、武田耕雲斎の妻、子供、孫など一族を処刑することを決めたのも彼であった。当然ながら、市川三左衛門の峻厳な処置は、反対派の憎悪を買った。最期は逆磔という極刑の中でも極めて残酷な刑に処されたのも、故なきことではなかったのである。
筆者は「あとがき」で「市川三左衛門という人は極く常識的な人間であり、偶々藩重役の家柄の出という立場上、常識外れの主張を唱えて社会秩序を破壊している天狗党から藩を守り抜くことを考えて懸命に行動したのにすぎない。」「市川がなまじ為政者、軍略家として有能であったために他藩では簡単に終息した尊王攘夷派と佐幕派の争いが紛糾してしまったが、市川自身は藩から与えられた責任を誠心誠意全うしようとしただけのことである」と述べているが、この小説を読むと「なるほどそういうものか」と納得できるものがある。
天狗党の末路はよく知られているように壊滅的惨敗であった。しかし、明治維新を是とする立場からいえば、天狗党は勝者であり、天狗党に対抗した諸生党は敗者であった。我々は知らず知らずのうちに勝者の側から歴史を見ているが、常に両方の立場から史実を見ておくことの重要さをこの本は思い起こさせてくれる。

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