史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

国富

2022年08月20日 | 宮崎県

(宝光寺)

 

宝光寺

 

 国富町宝光寺に「法難三法師のものといわれる墓がある。三名は玉出宗中、樋口清徹、鶴樹綱といわれている。彼らは、山命を奉じて九州を巡錫中に鹿児島を経てこの宝光寺に逗留した。折から西南戦争が起こっており、薩軍は三人を官軍の間者として、計略を持って佐土原で彼らを捕らえ、三人を処刑した。三法師は従容と処刑されたと伝えられる。

 

法難三法師の墓

 

(本庄剣柄稲荷神社)

 本庄剣柄稲荷神社(ほんじょうけんのつかいなりじんじゃ)は、通称「剣の塚」と呼ばれる古墳の上に鎮座する神社である。

 

本庄剣柄稲荷神社

 

宮永家墓所

 

宮永真幸大人墓

 

宮永家墓所

 

宮永眞琴大人墓

 

 ここで宮永真琴の墓を探したが、なかなか見つからない。半ば諦めかけたとき、神殿の前で枯れ葉を掃いていた男性がいたので、「宮永真琴の墓をご存知ないでしょうか」と尋ねると、親切にも宮永家の墓所をご案内いただいた。この男性は、剣柄稲荷神社の関係者だったのである。

 しかし、最初にご案内いただいた墓所に宮永真琴の墓はなく(父宮永真幸の墓はそこにあった)、窮した男性は奥さまをご自宅まで呼びに行った。朝六時という早朝のことで、こちらは大変恐縮したが、実に親切な方であった。

 男性によれば奥さまはこの神社の八十何代目の神官だそうである。ご夫婦にご案内いただいた宮永家の墓所は、神社の向かい側の民家の敷地内にあった。

 

 宮永真琴は、天保八年(1837)の生まれ。少年の頃、郷里本庄の漢方医にして儒者谷山道一に詩文を学んだ。国学・漢学に通じ、詩文を能くし、和歌・俳句を嗜み、都都逸までつくった。文久三年(1863)、妹の夫である志士甲斐大蔵とともに投獄された。維新後、高岡の郷校の教授となった。剣塚神社宮司を継ぎ、八幡神社、赤池神社祀官を兼ねた。明治四年(1871)、本庄古墳群を調査し、平面図に土地の伝説を付して、日田県の本庄支庁に提出し、明治七年(1874)には側面図を作成した。のち宮崎県皇典講究分所東諸県組講究係となり、晩年は漢方医を営みながら、詩文に親しんだ。明治四十一年(1908)、年七十二で没。

 

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