史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

石巻 Ⅳ

2022年12月17日 | 宮城県

(龍谷院)

 

龍谷院

 

 東日本大震災は宮城県沿岸部、ことに石巻市に甚大な被害をもたらしたが、もっとも広く知られているのが大川小学校の悲劇であろう。龍谷院はその大川小学校の近くにある寺院である。この寺も津波に襲われ本堂は流失して、現在は小さな仮本堂が建てられている。また墓地入口には震災の鎮魂碑がある。その近くに羽生玄栄の顕彰碑が建つ。

 

東日本大震災鎮魂碑

 

羽生玄栄翁碑

 

 以下、竹さんの「戊辰掃苔録」より。

 羽生玄栄は、登米伊達家御次医師筆頭。桑名藩士大沢因幡の子で、十七歳の時、江戸へ出て西洋医学を学び、天保十五年(1844)に登米伊達家医師の羽生玄探の養子となり、翌年登米領主の藩医に迎えられた。文久二年(1862)、京都探索方を命じられ、八月ひそかに京に発ち、諸藩の士と交流し情報を得て、藩主慶邦に仙台藩の歩むべき道、攘夷の節を建言した。戊辰戦争では、仙台藩の会津攻めに反対で、征討に踏み切ったことに驚いたが、但木土佐には攻撃を始めることで会津に恭順を示させる意図があった。維新後は新政府の逮捕から逃れ、桃生郡十五濱村長面浜に身を隠し、文墨に独り楽しみ、また長面の青少年を指導し種々の面で指導的立場にあった。明治三十三年(1900)没。七十八歳。

 

(多福院)

 

多福院

 

真橙院徳巖栄傳居士(勝又要七の墓)

 

 勝又要七は、銃士。中村丹宮指揮。慶應四年(1868)七月十八日、岩代高宮にて戦死。

 

(慈恩院)

 

慈恩院

 

長谷平直道之墓

 

 長谷平直道は、戊辰戦争で刑死。長谷和の子で平と称した。この墓は、もと湊小学校の裏にあったが、昭和四十四年(1969)、没後百年を機に所縁の深い慈恩院の平塚家の墓域に移された。

 

(久円寺)

 

久円寺

 

武藤家累世墓(武藤利直の墓)

 

 武藤利直(通称鬼一)は、天保九年(1838)の生まれ。慶應元年(1865)、川俣陣屋支配地取締役。子弟を集めて文武を教授した。戊辰戦争では、細谷十太夫の編成した烏組に属して奮闘した。明治七年(1874)、水沢県一等出仕。翌明治八年(1875)には聴訟課属となったが致仕。のちに試験に合格して公証人となった。明治三十五年(1902)、病を得て没した。七十一歳。

 

(西光寺)

 震災の前から念願であった西光寺の真田喜平次の墓をようやく訪ねることができた。以前は納経塔の裏、竹垣との間の狭い空間に建てられていたらしいが、この寺も東日本大震災で大きな被害を受け、現在は参道に面した開けた空間に移設されている。

 

西光寺

 

西光寺

 

舊仙臺藩真田君碑

 

 真田喜平太は、文政七年(1824)の生まれ。諱は幸歓。真田幸村の後裔と伝えられる。藩主伊達斉邦、慶邦の小姓として出仕。下曽根金三郎について西洋砲術を考究し、安政三年(1856)、講武所ができると、砲術および西洋流調練の指南役となった。文久三年(1863)、藩主に滞京を説いたが容れられず、元治元年(1864)、脇番頭になり、慶応二年(1866)には近習目付となった。軍制改革にあたったが貫徹しないまま、戊辰戦争を迎え、軍目付として会津土湯口に戦った。奥羽越列藩同盟には反対の立場であったが、命によって参謀となった。戦後藩内で最も早く版籍の奉還と郡県制を主唱したが容れられず退隠した。明治二十年(1887)、年六十四で没。

 

真田幸歓妻齋藤氏墓

 

真田昌棟墓

 

 傍らには真田喜平太の妻や息の墓も置かれている。

 

(青葉神社)

 石巻市門脇青葉の青葉神社は、明治十四年(1881)の旧仙台藩士による大街道開拓の際に、藩祖への感謝と開拓の西郊を祈願して、仙台市内北山の青葉神社を分祀して開かれた。大正十一年(1922)には、青葉神社の社殿改築の時に余材をもらい受けて社殿を改築したものが現在も社殿として使われている。

 

青葉神社

 

僊臺藩牡鹿原開墾記念碑

 

 境内に建てられている仙台藩士牡鹿原開墾記念碑は大正九年(1920)の建立。碑文に開墾に従事した細谷十太夫の名前を見ることができる。

 

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