史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

涌谷 Ⅱ

2022年12月17日 | 宮城県

(清浄院)

 

清浄院

 

廣雲軒大澤靈光禅居士(栗山辰三郎の墓)

 

 栗山辰三郎は、伊達安芸家来。遠田郡元涌谷の人。慶應四年(1868)、八月二十九日、羽後六郷鶴田川原にて戦死。

 

白岩家之墓(白岩杢右衛門の墓)

 

 白岩杢右衛門は、伊達安芸家来。遠田郡涌谷の人。慶應四年(1868)七月二十九日、岩代二本松にて捕らえられ斬。

 

(見龍寺)

 

見龍寺

 

 見龍寺には、涌谷伊達家の墓所「見龍廟」がある。中には伊達騒動で有名な伊達安芸宗重の墓もある。

 

栗軒十文字先生之墓

 

 十文字龍介(栗軒)は、仙台藩出入司三好監物や近習安田竹乃輔と親しく、奉行但木土佐の信任も厚く、藩内開国派の中心人物であった。維新後は北海道開拓に従事し、開拓使判官島義勇のもとで勤務した。明治二十四年(1891)、没。

 

頌徳碑

 

 涌谷伊達家家臣森亮三郎の頌徳碑である。以下、竹さんの「戊辰掃苔録」より。

 十一歳で郷学月将館に学び、さらに剣を磨いて西洋流兵術、砲術、弾薬の製作技法等を習得した。戊辰戦争では仙台藩軍本部の副監亘理善右衛門の下で作戦の中枢部員となる。涌谷勢は四月、中山口に会津藩を攻め、急旋回して白河口で西軍と交戦、七月には秋田に兵を進め、参謀長を務めた。八月十四日に六郷町を出て大曲に進んだ時、三方から秋田勢の攻撃を受け、涌谷勢は応戦したが大敗した。この時、亮三郎は止まってなおも指揮中、足に銃弾を受け倒れた。明治二年(1869)、主君亘理元太郎の侍講にあげられ仙台屋敷に伺候した。明治四年(1871)、廃藩置県とともに遠田南方二七ヶ村の郡長となり、以降宮城県一五等出仕、遠田郡小学校取締、三等郵便局事務取扱役、涌谷村戸長を歴任し、明治二十二年(1889)、初代小牛田村長に当選した。明治四十三年(1910)、年八十一にて没。

 

 ここに来てにわか雨に襲われた。傘を自動車に残していたので走って戻ったが、わずかな時間でびっしょりになってしまった。

 

(中野三墓地)

 

桜井家之墓(桜井熊蔵の墓)

 

 桜井熊蔵は、遠田郡黒岡の人。坂本雅樂之介指揮。卒。慶應四年(1868)、六月十二日、白河にて戦死。

 

(猪岡共葬墓地)

 大平与一は、遠田郡小塚の人。慶應四年(1868)、八月十四日、羽後六郷にて戦死。

 

旭容院泰参心利居士(大平與市の墓)

 

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