史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

栗原 Ⅱ

2021年01月02日 | 宮城県

(タクロン公園)

 

五日市憲法草案者

千葉卓三郎出生之地

 

タクロン公園

 

 栗原市志波姫の千葉卓三郎出生地は、整備されて公園となっている。千葉卓三郎が自称したタクロン・チーバーという名前に因んでタクロン公園と名付けられている。

 公園には明治十九年(1886)十二月、千葉家が石巻に転居し廃家となった家屋の礎石が再現されている。千葉家は、宅地のほか、田が七反六畝二十六歩、畑が三反八畝十三歩を有していた。

 

 私擬「五日市憲法草案」の起草者として知られる千葉卓三郎は、嘉永五年(1852)六月十七日、仙台藩御不断組千葉宅之丞の子として、刈敷村大西十五番地に生まれた。故あって養母貞二度だてられ、十一歳にして仙台藩校養賢堂学頭大槻磐渓に師事し、儒学、蘭学を学び、十六歳で戊辰戦争に参加したが、敗れて郷里に帰農した。その後、新生の道を求め、医学、皇学、浄土真宗などを学んだが、満たされぬまま懊悩の日々を送った。明治五年(1872)、刈敷教会にて酒井篤礼(イヲアン)よりハリストス正教の啓蒙伝道を受け、入信を決意。明治六年(1873)、上京してニコライより洗礼を受け、洗礼名ペートル(白徳)と称した。のちイヲアン酒井とともに伊豆野教会、若柳教会、若柳十文字教会、佐沼顕栄会など仙北地方の布教に奔走した。明治七年(1874)、「神仏に対する不敬の罪あり」と、神官や僧侶の告訴にあい、水沢県庁(登米町)の獄に百余日繋がれた。出獄後、ニコライのもとに走ったが、一転して儒学者であり、耶蘇教排撃論者の安井息軒の門に入った。継いでカトリック、洋算学、プロテスタント等多くの師に学び、求道と精神遍歴の推江、明治十三年(1880)、神奈川県西多摩郡五日市町勧能学校(現・東京都あきる野市五日市小学校)の教師に招かれ、後に二代目校長となった。三多摩地方における自由民権運動の高まりの中で、民権結社学芸講談会を主催し、深沢権八ら同志と研鑽論議を重ね、自らを「自由権下不羈郡浩然気村貴重番智」の不平民「ジャパネス國法学大博士タクロン・チーバー氏」を自認しつつ、明治十四年(1881)に五日市憲法草案を起草した。この草案は全文二百四条からなり、学習運動の結晶として情熱を傾け、心血を注いで、風土・時勢・道理にかない、民情を考慮する「法の精神」を参酌して起草されたもので、極めて民主的で日本國憲法につながる思想を包含したものといわれる。しかしながら、草案者の悲願であった君民共治の実現を見ないまま、病に倒れ、明治十六年(1883)、三十一歳の若さで生涯を閉じた。当初、東京谷中天王寺のキリスト教共同墓地に葬られたが、現在は仙台市内の資福寺に改葬されている。

 

 タクロン・チーバーとは、この時代にしては洒落た名前を付けたものであるが、実は日本人の名前は外国人には非常に発音しにくい。私の苗字「うえむら」は、なかなかその通り読んでもらえず、大概の外国人は「ゆいむら」と発音する。特に母音が連続する名前は発音が難しいらしい。一々訂正するのも面倒なので、私はそのまま呼ばせていて、自己紹介するときもわざわざ「ゆいむら」と称しているほどなのである。

 

(志波姫総合支所)

 

千葉卓三郎顕彰碑

 

 志和姫総合支所にある千葉卓三郎顕彰碑には、五日市憲法草案から六条を抜粋して刻んだものである。同様の顕彰碑は、東京あきる野市五日市と仙台市資福寺にある。これで私は三箇所にある千葉卓三郎顕彰碑をコンプリートすることができた。

 

 この後立ち寄ったコンビニで出会った子供は、胸に「千葉」という名札を付けていた。さすが卓三郎の地元だけある、と人知れず感動していたが、そのことを竹さんに話すと「宮城県は千葉だらけです。クラスに七~八人、千葉がいることもあります」のだそうである。

 

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