(赤井)
大槻俊斎先生誕生の地
東松島市内で県道16号線を走っていて偶然この石碑を発見した。竹さんにお願いして百メートルほど逆戻りして、石碑を写真に収めた。
大槻俊斎は、文化元年(1804)、父武治、母おこしの次男に生まれた。医を志し、十八歳のとき江戸に出、医術を修め、さらに天保八年(1837)より三年間長崎で西洋医学を専攻した。三十七歳で江戸に戻り、町医者を開業。高野長英と親交があった。四十六歳のとき、牛痘による種痘に初めて成功した。五十三歳で仙台藩医に登用され、兄竜之進もまた仙台本藩に召出された。安政五年(1858)、世情騒然とする中で「お玉が池種痘所」を設立した。五十七歳で御番医並びに種痘所頭取に任じられ、のちに種痘所を西洋医学所と改称し(東京大学医学部の前身)、引き続き頭取となった。文久二年(1862)、四月十日、病篤く、没した。享年五十九。
(清厳寺)
清厳寺の裏山には広大な霊園が広がっている。「かたかごの里公園墓地」と名付けられた一画に辺見家の墓が三つくらい並んでいる。その中に辺見鷹治の墓がある。
清厳寺
廣維院義邦雄戦居士(邊見鷹治の墓)
辺見鷹治は、銃士。登米伊達筑前家来。慶應四年(1868)七月十六日、岩代浅川にて戦死。二十八歳。
(如月庵墓地)
如月庵
戊辰之役戦死 安久津源左衛門之墓
安久津源左衛門は、明治元年(1868)九月十日、磐城鬼石にて戦死。
この日は強い日差しに襲われたかと思えば、突然土砂降りの雨が降るといった、目まぐるしい天気であったが、如月庵墓地を訪ねた時には、爽快に晴れた。この日の史跡の旅はここまで。JR仙石線本塩釜駅まで送ってもらって、ここで竹さんご夫妻と分かれた。この次に宮城県を訪ねることができるのが何年後になるか分からないが、その日が来るのを楽しみにしておきたい。
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