史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

加美

2021年01月02日 | 宮城県

(正眼庵霊園)

 手元の「明治維新人名辞典」には芝多民部の墓は市内の善導寺にあるとされている。善導寺の墓地は、ほとんどが葛岡霊園に移されており、そちらにあるものと推定された。竹さんが調べてくれて、葛岡霊園の善導寺墓地ではなく、加美町の正眼庵霊園にあるらしいという情報を寄せてくれた。さらに実際に足を運んで、芝多民部の墓を発見してくれたのである。今回の旅の最大の目的は芝多民部の墓を詣でることにあった。

 芝多家の墓は、二代から十一代まで仙台の善導寺にあったが、昭和四十八年(1973)市の計画により墓碑を移転したということである。正眼庵の墓地も荒廃するに任されていたが、昭和五十九年(1984)、区画整理が竣工し、現況のように整備されたということである。

 

芝多民部常則墓

 

 芝多民部は文政五年(1822)の生まれ。父は芝多対馬。諱は常則。安政二年(1855)九月、仙台藩奉行職につき、殖産興業、富国強兵策を打ち出し、城下町近江商人中井新三郎を蔵元に任じて全面的な専売仕法を試みる一方、改正手形と称し領内流用の金券を発行させるなど、果断な改革政策を推進した。三浦乾也に命じて軍艦を造らせるなどしたが、物価高騰による不穏の責を負い、安政五年(1858)、退職。青年武士による担ぎ出しの動きが政争化したため、慶応元年(1865)十二月、御預け、減封、所替えを命じられ、翌慶應二年(1866)二月、絶食の末、亡くなった。年四十五。

 

芝多家之墓(芝多贇三郎の墓)

 

 民部の嫡子、贇三郎常質は代々の忠勤により加美郡谷地森において知行地一千石を下され、慶応二年(1866)、一同を率いてこの地に移住した。慶應四年(1868)、戊辰戦争にも従軍し、白河口に戦って負傷。九月に至り藩が帰順するに至り、帰郷して一切を整理し一族は家来に土地を分配し、それぞれ農に帰せしめた。領地および人民の処置が終わると、上京して吏に職を求めたが果たせず、明治八年(1875)十一月。東京で没した。二十九歳。

 

寛岳義(大沼寛左衛門の墓)

 

 大沼寛左衛門(勘左衛門とも)は、芝多贇三郎家来。銃士。加美郡加賀石村谷地森の人。慶應四年(1868)五月二十六日、白河金勝寺山にて戦死。

 

(洞雲寺)

 

洞雲寺

 

額兵隊副隊長 武藤勝作墓

 

武藤家之墓

 

 武藤勝作は額兵隊差図役頭取。加美郡宮崎村上小路、栄吉の子。明治二年(1869)四月二十日、木古内にて勇戦の後、死亡。二十一歳。

 法名碑によれば、明治元年(1868)十月二十日死去。二十三歳。

 明治元年(1868)十月二十日というと、徳川脱走軍が蝦夷地で鷲ノ木に到着した日であり、武藤勝作が戦死したとすれば、この日ではないように思われる。

 

如幻院殿 古内實廣墓(古内可守の墓)

 

 これも竹さんの「戊辰掃苔録」から転載。古内可守は宮崎邑主。着座。三千二百八十三石。明治元年(1868)七月六日、奉行に任ぜられ、十二日手勢一小隊と宮床勢一小隊を率いて相馬口へ出陣。熊川の戦いで中村藩の動きが怪しく感じられ、八月三日可守と遠藤主税、木村又作が使者として中村藩主に説くが、言を左右にするだけで、六日ついに同盟を離脱した。その後役命により金山に出て岩谷堂伊達の軍を援けたが、戦況不利となり退却した。明治二年(1869)六月、仙台騒擾で永禁固を申し渡され平士に降格した。申立書には「国政を全権する職として好党贋金を鋳造するを知りながら厳禁せざるの罪なり」とあり、旧勤王派から難癖としか言いようのない理由によるものであった。明治四年(1871)三月に赦され、寺子屋の師匠を務め、宮崎小学校長となる。明治十四年(1881)四月二十四日没。享年五十。

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