(間々田八幡宮)
間々田八幡宮
間々田八幡宮の創建は古く、約千二百有余年前の天平年間に勧請されたものと伝えられている。
JR宇都宮線間々田駅からは四キロメートルほど離れているので、間々田八幡宮までタクシーを使うことにした。運転手さんは、あまり間々田八幡宮まで客を乗せることがないらしく、しきりに
「この道であってますか。」
と尋ねるので、困ってしまった。私だって初めてなのである。
狛犬
境内には推定樹齢五百年という御神木があり、愛敬あふれる顔をした狛犬があり、ぶらぶら散歩するだけでも楽しい。
拝殿裏の森の中に明治天皇遥拝所碑がある。大正元年(1912)の建立。
明治天皇は明治九年(1876)と明治十四年(1881)の二度にわたって東北巡幸に出ているが、この石碑が一回目か二回目か、どちらを記念したものか不明である。
明治天皇遥拝所
妙斎田口翁碑
田口妙斎の顕彰碑である。撰文は森鷗村(保定)、篆額は楠本正隆、金井之恭の書。
田口妙斎という人は、手元の「明治維新人名事典」(吉川弘文館)にも掲載されていない無名の人物であるが、小山歴史研究会の大島猛氏が詳細を調査している。以下は大島猛氏の「間々田八幡宮の碑と像について」に拠る。
(間々田四丁目共同墓地)
田口妙斎の墓は、間々田四丁目の共同墓地にある。田口家の墓が無数にあるので、そこから妙斎の墓を探し出さねばならない。
田口家累代之霊
妙斎道一信士(田口妙斎の墓)
田口妙斎は、下都賀郡間々田の人。文化五年(1808)に生まれた。諱は道一、号は思水。七歳にして龍昌寺の東林上人について句読を受ける。十二歳のとき伯父である会津若松建福寺の住職霊州祖澄について仏学を二年間修めた。さらに会津の米澤季四郎に漢学を九年間学び、次いで高津留川について詩文章を五年学んで、故郷間々田に帰った。帰郷後、私塾を開いて子弟を教育した。その教えを受けた者は一千余人に及んだという。明治十七年(1884)二月没。
(間々田保育園)
間々田保育園(蒙求堂跡)
田口妙斎は間々田で蒙求堂(もうきゅうどう)という名の塾を開いていた。現在の間々田保育園の場所である。蒙求堂は、明治五年(1872)の学制発布以降修道館とも称されていたが、間々田尋常小学校に引き継がれ、さらに小山市役所間々田支所となった。
(間々田三郵便局)
田口妙斎生家跡
間々田三郵便局に隣接する駐車場が田口妙斎の生家跡である。ここには現在蔵が建っているのみである。
ここから間々田駅まで一・五キロメートルほど歩かなくてはならない。ちょうど目の前にコミュニティバスのバス停があり、ほとんど待ち時間なく間々田駅行きのバスが来た。ほかに乗客はおらず、貸し切りであった。運転手さんに料金を尋ねると
「六十五歳以上は百円です。」
との答え。「そうか六十五歳以上に見えるのか…」と軽いショックを受けた。背筋を伸ばして歩かなくてはならない。
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