史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

宇都宮 Ⅷ

2022年09月24日 | 栃木県

(宇都宮城址公園つづき)

 

天皇親臨賜酺處

 

 この日は、宇都宮駅前でレンタサイクルを調達し(一日百円)三時間ほどかけて宇都宮市内を回った。かいた汗の量に比して、収穫は少なかった。

 

 宇都宮城の「天皇親臨賜酺處」は、明治二十五年(1892)十一月二十六日、陸軍特別大演習後、明治天皇臨席のもと、この地で大宴会を催されたことを記念したもの、「酺(ほ)」とは、集まってともに酒を飲むという意味である。翌日、天皇は宇都宮駅から汽車で東京に帰還した。

 

(報恩寺つづき)

 

戸田三男君墓

戸田操松日子墓

 

 戸田三男は、会津飯寺にて濃霧の中、一隊を率いて進軍中、長岡藩家老の山本帯刀隊と遭遇し、彼らを捕捉した。軍監中村半次郎の判断により山本帯刀らは処刑されたが、その際に自分の愛刀と金二百両を戸田に渡し「これを貴藩に提供す。相当の費用に充てられんこと」を託した。戸田は有志の賛同を得て、戦後六道の辻にあった旧幕府軍の墓地を整理して建碑した。なお、山本帯刀の佩刀は、現在栃木県護国神社の所蔵となっている。

 

光形君 元治元年九月十六日

(戸田光形の墓)

 

 戸田光形の墓である。

 戸田光形は、天保七年(1836)の生まれ。父は藩老戸田光利。安政元年(1854)頃脱藩。江戸に出て初め講武所師範戸田八郎左衛門に、ついで安政四年(1857)より斎藤弥九郎の門に学び、万延元年(1860)、帰参を許されたが、長ずるに及び宇都宮天狗党を結成してその首領となった。元治元年(1864)六月五日、筑波勢の池尻嶽太郎の隊に加盟して幕軍と戦い、敗戦後、筑波本隊に転じ、戸田弾正の名において総轄兼調練奉行に任じられ各地を転戦した。同年九月十六日、磯浜において戦死。年二十九。主義を異にして、藩老縣信緝(六石)をつけ狙った。直情径行の人であった。

 

(慈光寺つづき)

 

孝二郎彦坂輿譲墓

 

 彦坂孝次郎(孝二郎とも)は、慶応四年(1868)八月三十日、会津倉谷村にて戦死。二十二歳。

 

齋田權兵衛重虎

 

 齋田権兵衛は武具奉行。慶應四年(1868)六月二十六日、下野藤原村にて戦死。四十六歳。

 

(生福寺)

 


生福寺

 

 生福寺に菊池教中の墓を訪ねた。菊池教中は、文政十一年(1828)、宇都宮城下に生まれた。父は呉服商を営む菊池淡雅。江戸にも出店して巨富をなした。家業を継いだ教中は、業務の拡張に精励する傍ら、困窮者や貧しい文人墨客に対する援助を厭わなかった。安政二年から文久年間にかけて、鬼怒川沿岸岡本、桑島の荒地の開墾に尽くした。国事多端の折、姉巻子の婿、大橋訥庵に感化され熱烈な尊王攘夷論者となった。政治的な活動に目覚めた教中は、老中安藤信行の暗殺計画にも関与し、宇都宮藩士による一橋慶喜擁立挙兵計画が露見すると、逮捕投獄された。文久二年(1862)一旦出獄したが、間もなく病のために没した。三十五歳であった。

 

義烈院真岸澹如居士(菊池教中の墓)

 

澹如菊地教中之墓(菊地教中の墓)

 

 生福寺を再訪した。菊地教中の墓はどうやら二カ所にあることが分かった。

 

東海院淡雅温卿居士(大橋淡雅の墓)

順性院慈室貞民大姉(菊地民子の墓)

 

 墓地入口付近にある菊地家の墓には、教中の両親、大橋淡雅と菊地民子の墓がある。

 

 大橋淡雅は、寛政元年(1798)の生まれ。初め医者を志したが、十五歳のとき、宇都宮の豪商菊池家(佐野屋)の養子(妻は民子)となると、商才を発揮し、文化十一年(1814)正月、江戸日本橋元浜町に借地して商売を始めて、一代にして巨富を成した。営業内容は、呉服、木綿、質屋、両替などで、金貸も行った。財なるや、渡辺崋山をはじめ当代一流の文人墨客と交遊し、また自らも書筆に長じ、鑑定を能くした。菊地家の養子であったが、大橋姓を名乗り続け、後嗣に「商人は不都合」として大橋訥庵を娘巻子の婿とした。坂下門外の変の遠因と言われる。年六十五で没。

 

 菊池民子は、寛政七年(1795)の生まれ。父は、佐野屋治右衛門こと菊池治右衛門。大橋淡雅(佐野屋孝兵衛)を婿養子として迎えた。菊地教中、大橋巻子の母である。淡雅は、江戸日本橋元浜町に分家出店してより、呉服・木綿等を取り扱い一代にして巨富をなした。淡雅は文人墨客を友とし、書道に長じたが、民子も文才に富み、国学、和歌を大国隆正、吉田敏成に学び、すこぶる和歌に長じ歌集「倭文舎集」を版行した。他面女丈夫であったことは、大橋訥庵、実子菊池教中らが坂下門外の変に連座、入牢した際の関係書翰によって知られる。元治元年(1864)、年七十で没。

 

(台陽寺つづき)

 

堀君碑銘(堀貞道の墓)

 

 堀貞道は、弘化元年(1844)の生まれ。父は宇都宮藩士堀内記。通称は兵吾、豹吾。幼少から文武の道に励み、万延元年(1860)正月、藩の訓読師となった。筑波挙兵後、藤田小四郎らが宇都宮城を訪れたころから、これを支援しようとする同志の動きが激しくなり、ついに同志の小山剛介ら八人と脱藩、城下竹下村に屯集した池尻嶽五郎の隊に参加し、変名して早川新介と称して、しばしば幕軍と戦ったが、のちに那珂湊の戦で捕らえられ、長岡村にて斬られた。年二十一。台陽寺の墓碑は、明治二十一年(1888)十二月の建碑。圓山信庸の撰文、関貞良の篆額および書。

 

 

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