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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

西尾

2010年01月03日 | 愛知県
謹賀新年

(西尾市歴史公園)
 この年末年始は、大阪の親戚と一緒に過ごすことになり、中間点ということで愛知県蒲郡市の西浦温泉に集合した。今回、逗留するまで西浦温泉の存在すら知らなかったが、ホテルから夕陽も日の出も拝むことができるという絶好のロケーションにあり、予想以上に素晴らしいところであった。

 家族をホテルに送り届けてから、夕食まで時間があったので、この隙に西尾を訪ねることにした。
 西尾は、大給松平家六万石の領地で、三河においては吉田藩(豊橋)に並ぶ雄藩であった。明和元年(1764)、大給松平家が入封以来、五代に渡って藩主となったが、歴代藩主はいずれも奏者番、寺社奉行、大阪城代、京都所司代など要職を歴任し、幕閣で重きを成した。中でも四代藩主松平乗全(のりやす)は、ペリー来航当時、老中として難局に当たったことで知られる。

 西尾城は、廃藩置県後、天守閣以下の建物が破却されたが、平成八年(1996)に本丸丑寅櫓と鍮石門が再建され、西尾市歴史公園として整備された。


西尾城本丸丑寅櫓


西尾城二ノ丸鍮石門

(盛巌寺)


盛巌寺

 市内の盛巌寺は、大給松平氏の菩提寺である。本堂南側には、松平乗全の墓がある。


源恭院殿観徳謙翁大居士
(松平乗全の墓)

 四代西尾藩主(大給松平家宗家九代)松平乗全は天保十一年(1840)に家督を継ぐと、同年奏者番に任じられ、弘化元年(1844)大阪城代、更に翌弘化二年(1845)には老中に就任した。対外問題では開国和親を主張、将軍継嗣問題では紀州慶福派だったため、水戸の斉昭と対立し、安政二年(1855)老中を免職となった。安政五年(1858)井伊直弼の推挙により再度老中となったが、桜田門外の変により井伊が死亡すると直後に辞職した。文久元年(1861)には東禅寺のイギリス人宿所警固に藩士を派遣。文久二年(1862)老中勤役中の不取締役を咎められ、一万石減石の上、隠居を命じられた。西尾藩主としては、藩校修道館や医学校済生館などを創設。藩士を江川坦庵のもとに派遣して藩の軍政改革を進めた。明治三年(1870)七十七歳にて死去。

 八王子の自宅から蒲郡まで、ノン・ストップで三時間半。早朝五時に家を出て、一切渋滞には遭遇せず、九時前には到着した。帰路は、帰省ラッシュに巻き込まれ、正午過ぎに現地を出発して、帰り着いたのは九時半を過ぎていた。途中の食事の時間を割り引いても往路の倍以上の時間を要した。「高速道路千円」のためかもしれないが、日本人は我慢強い。

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