史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「西南戦争外史」 飯干憶著 みやざき文庫

2010年01月04日 | 書評
会社の後輩が休暇をとって宮崎県日向にイカ釣り旅行にいった際に、土産に買ってきてくれたのがこの本である。書店の店頭に平積みになっていたというが、なかなかよく調べられており、西南戦争マニアを唸らせる内容となっている。
著者は兵庫県生まれで大阪の在住ながら、過去に宮崎県に勤務していた経験が長く、本書の要点は、宮崎県における西南戦争の被害の実態を明らかにすることにある。西南戦争といえば、田原坂の激戦や熊本攻城戦が想起されるが、西郷軍が人吉に後退して以降、あまり知られていないが宮崎県各地が戦場となった。「この戦いの全期間を通じ、直接戦場となった場所と期間は、熊本よりも鹿児島よりも、宮崎(日向)が一番長く、戦いの熾烈さも熊本、鹿児島の比ではなかった」という指摘は極めて正確である。このため日向の人々は、多数の戦死者を出し、家を焼かれ、さらには西郷札の発行により終戦後まで経済は混乱を来たした。著者によれば、宮崎県の悲劇は、遡れば西南戦争の前年に鹿児島県に併合されていたことが大きかった。このため宮崎各地で若者が西郷軍に徴発され、反対派は捕えられて処刑・投獄されることになったというのである。
著者は、徹頭徹尾西郷隆盛に批判的である。
――― 政府や大久保、川路の動向を知らなかったのであろうか。(中略)西郷は世間知らずか、世捨て人だったという外はない。
――― 西郷は江戸無血開城のような腹芸はできたが、戦いの権謀術数に欠けていた。
――― かれの戊辰戦争の勝利は、勝海舟が語っていたように、「時の勢い」であった。
――― 西郷が小倉処平の献策を受け入れて、小倉城を攻めていれば、熊本籠城戦は回避されていたであろう。西郷の戦略のなさがあらためて思われる。
――― 本来なら、決起の趣旨が果たせず、多くの死傷者を出した西郷は、敗戦を認め、ここで(熊本での敗戦後)自刃して西南戦争を終わらすべきだった。
――― 接する者に限りない愛情をそそいだのは同郷人に対してであり、異郷人には冷淡だった。
――― 西郷札を作った原因は、西郷の戦略不足と経済音痴にあった。
――― 「兵力に差はない。勝ちは目の前にある」と書状を書いた。戦いの現状を知ってか知らずか、この書状は極めて無責任というべきもので、総帥たる者がするべきことではなかった。
今でも、特に鹿児島県では西郷は神のように崇められ、西郷を批判することはタブーとなっている。著者がここまで遠慮なく西郷を批判できたのも、宮崎県という被害者の視点に立てたことが大きいのかもしれない。私も著者の西郷批判には全面的に同意である。
著者は返す刀で、西郷の実弟、西郷従道を責める。
――― 従道の傍観と怠慢が、西郷を誤らせ、西南戦争で多くの士族が死傷し、何の関係もない多くの庶民が苦しみ、西郷は不体裁な死を遂げた、といっても過言ではあるまい。
というが、この批評は従道には酷かもしれない。明治十年(1877)一月、私学校党による火薬庫襲撃事件が起きた後、海軍中将川村純義が鹿児島に派遣されている。川村は、西郷との直接会談を求めたが、結局、取り巻きの反対があって実現しなかった。川村に代わって、従道や大山巌がその任にあっても、結果は同じだったのではないか。
この本を非常に面白く読んだが、一点だけ(どうでもよいことながら)誤りがあったので指摘しておきたい。本書三十八頁に
――― 西郷の下野が知れると、薩摩出身の桐野利秋・篠原国幹両陸軍少将をはじめ、別府晋介・辺見十郎太・河野主一郎・永山弥一郎・中島健彦らが、官を辞して、西郷の後を追った。
とあるが、永山弥一郎は明治六年の政変後、西郷が下野し近衛の将校が大挙してそれに従ったとき、彼らと行動をともにしていない。永山弥一郎は、明治八年(1875)、明治政府が千島樺太交換条約を締結したことに憤激して官を辞したのである。

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6 コメント

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Unknown (鳴門舟)
2010-01-05 08:38:35
謹賀新年
 今年もよろしくお願いいたします。
私は、家内が観劇で東京に行ってますので、留守番です。
 さて、半藤氏の「幕末史」を読み終えたのですが、最後に西南戦争がでてきます。
 私は、西南戦争については、ほとんど無知ですが、本の中で印象に残ったのは、牧野伸顕のエッセイの中で、私学校生徒が蜂起した時、西郷は「驚いてひざを打ちと言った」
 木戸が病重く、睡眠中、突然「西郷、もう大抵にせんか」と大声で叫んだりした。
 この二つで、何となく西南戦争がおおまかにわかるような気がします。
Unknown (鳴門舟)
2010-01-05 09:57:54
文章が抜けていました。

 「驚いてひざを打ちと言った」
   →「驚いてひざを打ち〈しまった〉と言った」
Unknown (犀渓 凌)
2010-01-06 05:21:47
遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

コメントは本当に久し振りですが、

時間があればいつも拝見させていただいてます。

これからも参考にさせて頂きます
Unknown (植村)
2010-01-06 23:26:18
鳴門舟様
犀谷様

本年も宜しくお願いいたします。
昨日の朝は、大変冷え込みました。自転車で自宅を出たところで、路面凍結のためにすっ転びました。
年始早々、痛い目に遭いましたが、今年も良い年にしたいものです。
今年は「桜田門外の変」から150年目に当たります。関係史跡を回れればと考えております。
Unknown (湯原)
2010-01-11 01:39:04
お久しぶりです。
9年前に「水戸妙雲寺の井伊大老首塚」で投稿しました。湯原です。

覚えてないかも?

あれから、私もブログを立ち上げ少しつづ散策しております。

今回、私説「井伊大老の首の行方」という短編説を書きました。下手ですが、よかったら遊びに来てください。

今年も宜しくお願い致します。
Unknown (植村)
2010-01-12 22:59:34
湯原様

ご無沙汰しています。
9年前の投稿、よく覚えています。

今年は桜田門外の変から150年の節目の年に当たります。坂本龍馬も結構ですが、こちらももっと注目されると良いですね。
「私説」ゆっくり拝読させていただきます。

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