史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

多古

2018年05月19日 | 千葉県
(天神社)
 多古小学校の南側、天神社の裏手に残された石垣が、多古陣屋の貴重な遺構である。
 多古陣屋は、現在の多古小学校の校庭に所在していたもので、御殿・長屋・倉庫、稲荷社等の建物が置かれ、馬場も備えていた。面積は邸地八百坪、山地五百坪、囚獄囲地(牢獄、番小屋等)百坪であった。その敷地は板塀や法面の石垣で囲われていた。陣屋下の南北にのびる下馬通り沿いに表門、中門、裏門が並び、石垣下には堀が築かれ、表門前には朱塗りの橋が架かっていた。堀は表門周辺から陣屋の北側を囲うように直角に折れ、木戸谷奥の池(現、多古小学校正門前付近)に続いていた。


天神社


多古陣屋跡

 天正十八年(1590)、徳川家康の関東入封に伴い、その家臣保科正光が下総多古に一万石の領地を与えられたのが、多古藩の起源である。その後、保科家は信濃高遠藩に移り廃藩となったが、慶長十三年(1608)、加賀野々市から入封した土方雄久により立藩されたが、元和八年(1622)、再び廃藩となった。寛永十二年(1635)、松平(久松)勝義が駿河から移り、正徳三年(1713)には松平勝以(かつゆき)が一万二千石の大名となり多古藩が復活している。その後、明治維新を経て廃藩置県に至るまで松平氏がこの地を治めた。

(日本寺)


日本寺

 多古町日本寺の平山藤右衛門家墓地内に伊能忠敬夫妻の墓がある。平山家は忠敬の父の生家神保家の親類にあたり、忠敬の最初の妻ミチの母の生家でもある。忠敬は伊能家との縁組にあたり一旦平山家の養子となったうえで伊能家に婿入りした。一方ミチは家の事情で十三歳まで母と平山家で暮らし、その後伊能家に戻ったといわれている。平山家は伊能家、神保家に縁の深い家である。


平山家墓所
伊能忠敬の墓(左から二番目の墓石)


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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
伊能忠敬の墓 (小林)
2021-06-10 10:13:25
6日に多古町日本寺に行き平山家、伊能忠敬の墓を探しましたが分かりませんでした。
どの辺にあるか教えて下さい。
妻が平山家と縁があり、先日伊能忠敬記念館で平山家と伊能忠敬の縁を知り興味があります。
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伊能忠敬の墓 (植村)
2021-06-10 16:06:28
小林様

多古町を訪ねたのが3年前のことですので、やや記憶が曖昧ですが、日本寺は長い参道を持つ寺だったと思います。参道の入り口に近い方(つまり本堂からは遠い方)の、本堂に向かって右手奥の方に平山家の墓所があったと記憶しています。無事行き当てられることを祈っています。
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伊能忠敬の墓 (小林)
2021-06-10 16:30:07
ありがとうございました。
また近いうちに行ってみます。
先週は雨の中のアジサイが見事でした。
返信する
伊能忠敬の墓 (小林)
2021-09-06 10:34:04
植村様
以前にお伺いしました伊能忠敬のお墓。昨日確認してきました。うっかり写真撮ってくるのを忘れましたが、植村さんの写真と間違いない配置でした。
植村さんはこの左から二番目の墓石が伊能忠敬の墓石だとどのようにして確認されたのでしょうか。
小林
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伊能忠敬の墓 (植村)
2021-09-07 09:36:04
ご報告有り難うございました。
日本寺の墓石には「有功院成裕種徳居士」という忠敬の法名が刻まれています。佐原の観福寺の伊能忠敬の遺髪墓にも同じ法名が確認できます。
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伊能忠敬の墓 (小林)
2021-09-07 12:28:35
植村様
ありがとうございました。
ではせっかくの機会ですので佐原のお墓にも行ってみます。佐原には美味しい鳥の水炊きもあるので。
他のブログも読ましていただいています。
小林
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