史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

名古屋 Ⅵ

2022年06月18日 | 愛知県

(興正寺つづき)

 

普門院殿松誉雙天浄六大居士墓

(間宮六郎の墓)

 

 前日は一年半ぶりに京都に帰省した。両親と実家近所の中華の店で夕食をとった後、翌日の亀山出張に備えて名古屋まで戻って駅前のビジネスホテルに泊まった。翌朝、地下鉄の始発で八事まで行って、御幸山や興正寺周辺の史跡を訪ねた。

 興正寺では間宮六郎の墓を探し当てた。間宮六郎は、天保二年(1831)の生まれ。父は間宮延太郎正統。十二歳で家を継ぎ、弘化四年(1847)、用人。嘉永三年(1850)、大番頭。万延元年(1860)、年寄列。元治元年(1864)、征長軍先鋒隊長、慶応元年(1865)、年寄加判となった。第二次征長軍にも前藩主徳川玄同(茂徳)に従い大阪に出陣。慶應四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いの時には、名古屋で幼藩主義宣の側に起居し、動揺する藩論の中で佐幕派を抑え、前々藩主慶勝の帰名を待って佐幕派断罪を首唱した。美濃太田へ出陣。明治二年(1869)には東方総管として農兵隊を編成し、同年名古屋藩権大参事となった。廃藩置県で退官し、尾張徳川家の顧問となった。明治三十五年(1902)、年七十二で没。

 

牧山佐藤先生碑

 

 広い興正寺の境内でも北東部にあたる。大日堂や善聚庵のある敷地のさらに東側に石碑が並べられている。その中に佐藤牧山の碑がある。

 佐藤牧山は、享和元年(1801)の生まれ。初め、鷲津松隠の有隣舎に学び、のち名古屋の河村乾堂の教えをうけ、十九歳のとき江戸に出て昌平黌に入った。二十五歳にして駒込で諸生を教授した。のち尾張藩より儒官に登用され、明治二年(1869)には藩校明倫堂の督学となった。藩校廃止後、名古屋大津町で諸生を教えたが、聴講する者が極めて多かったという。晩年、東京に移り、斯文学会の講師となった。門人には近藤真琴、石川素童、川口江東、鈴木鹿山らが出ている。明治二十四年(1891)、年九十一で没。

 

柳本家累代之墓(柳本直太郎の墓)

 

 次いで、神葬墓地に移って、柳本直太郎の墓を探した。

 柳本直太郎は、嘉永元年(1848)の生まれ。福井藩士。小坊主三人扶持という極めて微禄であったが、その才が認められ、文久元年(1861)三月、英語の学習を命じられた。文久二年(1862)、蕃書調所に入り、慶応元年(1865)、横浜で外人相手に英語の修行を命じられ、慶応三年(1867)四月にはアメリカへ留学した。足軽の身で洋行したのは稀であった。明治になって華頂宮博経親王の在米留学中の世話役を勤め、帰朝後は文部省に入って東京外国語学校長となった。明治二十七年(1894)から明治三十年(1897)まで、第三代名古屋市長をつとめた。大正二年(1913)、年六十六歳で没。

 

(西光院)

 

西光院

 

拙斎長谷川敬之墓(長谷川惣蔵の墓)

 

 西光院には長谷川惣蔵の墓がある。

 長谷川惣蔵は、文化五年(1808)の生まれ。惣蔵は通称。諱は敬、雅号に拙斎、是風。尾張藩主徳川慶勝が支封高須家の世子であったときから補導に努めた。慶勝の本家相続に従い、名古屋に移り藩政改革に努力した。安政元年(1854)、皇居造営の斎、宮城拡張に奔走した。安政五年(1858)、慶勝幽閉に在して永蟄居。文久二年(1862)、赦されて慶勝に随従して上京し、公武合体に活躍した。征長の役には征長総督慶勝を助けて軍務をみ、役後、千賀信立とともに彼の使者として幕府に復命した。用人並、勘定奉行を歴任。慶應四年(1868)三月、退隠後は子弟の教導にあたった。明治十九年(1886)、年七十九で没。

 

(御幸山公園)

 

御幸山公園

 

 地下鉄八事駅の南東方向の住宅街には、その名も「御幸山」という町名が今も引き継がれている。天白区御幸山の御幸山公園は、一見するとどこにでもある平凡な公園であるが、入口に「明治天皇八事御野立所」という石碑が建てられている。明治二十三年(1890)の陸海軍連合大演習の際の明治天皇の滞在跡である。それまで音聞山と呼ばれていたのが、これを契機に御幸山と改められた。現在、この周辺は高級住宅街となっている。

 

明治天皇八事御野立所

 

御統監之所

 

 同じ公園内にある御統監之所碑は、大正天皇がやはり軍の演習を統監したことを記念したものである。

 

 

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