(木崎宿)
日光例幣使道 木崎宿
天狗党は、太田金龍寺を出ると、日光例幣使道に沿って進み、木崎宿を経て南に進路を取った。現在、木崎宿にはほとんど往時の遺構は残っておらず、新田木崎町交差点に木崎宿を示す石碑が建てられている程度である。
(長命寺)
木崎宿に到達した天狗党は、長命寺にて先遣隊の伝令の兵と会った。伝令のもたらした情報により、例幣使道の先には伊勢崎藩兵約三百が待ち構えていることが分かった。武力衝突を避けた天狗党一行はここで南に進路を変更した。
長命寺
木崎宿色地蔵
(矢抜神社)
矢抜神社
(最勝寺)
最勝寺
木崎宿を出た天狗党は、下枝の矢抜神社、最勝寺を抜けて、世良田へ入った。
東武伊勢崎線世良田駅は無人駅であるが、新田氏所縁の世良田東照宮や新田荘歴史館、長楽寺などが点在しているため、駅前で無料自転車を貸してくれる。この自転車で矢抜神社、最勝寺、木崎宿まで一回りした。
なお、世良田氏は、徳川家の祖といわれる。世良田駅前には「徳川氏発祥の地」という木標が建てられている。
徳川氏発祥の地
(長楽寺)
長楽寺
長楽寺は、新田氏の祖新田義重の子、得川義季を開基とし、承久三年(1221)に創建された東日本最初の禅寺である。戦国末期には寺運は著しく衰退したが、徳川家康が関東の地に封じられると、天海僧正を住職に任じて復興に当たらせた。天海は境内を整備し、伽藍を修復し、末寺七百余ヵ寺を擁する大寺院に成長させた。しかし、明治維新によって徳川幕府が崩壊すると、荒廃するに任されたが、最近になってその歴史的価値が認識され、各方面の支援を得て、再興されている。
開山堂
新田家累代墓
開山堂の裏に新田氏累代の墓地があり、そこに幕末明治期に活躍した新田俊純やその父道純の墓がある。墓地は雑草が生い茂り、蜘蛛の巣が縦横に張っている。もう少し維持保存に手を入れてもらいたいものである。
従四位男爵新田俊純墓
新田俊純は、文化十二年(1829)、新田道純の長男に生まれた。新田岩松家の嗣子として安政元年(1854)、家督を継いだ。慶応三年(1867)、上野の金井之恭、大館謙三郎らが新田氏の遺臣と称して新田勤王党を組織した。その首領に推戴された。こと露見して党員らは岩鼻の獄に繋がれたが、東山道先鋒総督に東下に会い、高崎における勤王の誠意を披瀝し、中軍随従を命じられ、ついで大総督宮より大隊旗を授与されて、上野国戸倉おける会津軍追討を担当した。慶応四年(1868)五月、朝臣に加えられ、菅沼左近将監触下の中大夫、江戸鉄砲洲開市門の守衛、市中取締に就いた。明治六年(1873)、検査寮出仕。明治二十七年(1894)、年六十六で没。長女は井上馨の妻となった。東京谷中にも墓があり、長楽寺の墓は遺髪を収めたものか。
新田道純の墓
太鼓門
太鼓門は、鼓楼とも呼ばれ、江戸初期の建造。楼上に太鼓をかけ、寺の諸行事の合図に使用された。
忠霊塔
忠霊塔は、昭和二十一年(1946)に世良田村によって建てられた。忠霊塔には、明治十年(1877)の西南戦争から太平洋戦争までの二百四十五名の英霊が祀られている。
西南戦争では、この地出身の柿沼谷吉という兵卒が戦死している。
(世良田東照宮)
世良田東照宮
徳川家康が亡くなると、その遺体は日光東照宮に葬られたが、当時日光輪王寺と長楽寺の住職を兼ねていた天海は、家光による日光の改修以前の旧社殿の一部を、徳川氏発祥の地である世良田の長楽寺境内に移築して、東照宮を勧請した。
つまりこの場所は、幕末倒幕に挙兵した新田俊純とその幕府を開いた徳川家康が背中合わせで同居しているという不思議な空間なわけである。
(太田市立新田荘歴史資料館)
東照宮に隣接して新田荘歴史資料館が開設されている(昭和六十年(1985)に開設された東毛歴史資料館が改称されたもの)。地方の資料館としては驚くほど、立派な施設である。入館料二百円。資料館の前には新田氏が生んだスーパースター新田義貞像がある。
新田荘歴史資料館
新田義貞公之像
展示はこの地域の原始・古代からの歴史に関わるものから、新田義貞が活躍した南北朝時代、さらに江戸時代に至る出土品、武具、錦絵などが展示されていて、大変充実している。個人的には、新田俊純が残した「武者絵」(明王院蔵)が目をひいた。
幕末、新田氏の末裔と称する岩松氏が現在の太田市下田島町に屋敷を構えていたが、生活は決して楽なものではなかったようである。岩松義寄(よしより)、徳純(よしずみ)、道純、俊純の四代は、生活の糧を得るために「猫絵」を大量に残した。「新田猫絵」は、養蚕の大敵であるネズミ除けとして人気を集めたというが、多分、ネズミ退治にはあまり実効はなかったのだろう。それにしても猫絵が四代にもわたって描き続けられたということは、新田氏の血筋がそれなりに有り難かられたということを意味している。
(明王院)
明王院
明王院は、新田義貞が居住した安養寺館跡といわれ、境内には、千体の不動明王像をピラミッド状に積み上げた千体不動塔(延享四年(1747)建立)がある。
不動尊
不動尊の文字は、新田道純の筆によるもの。
日光例幣使道 木崎宿
天狗党は、太田金龍寺を出ると、日光例幣使道に沿って進み、木崎宿を経て南に進路を取った。現在、木崎宿にはほとんど往時の遺構は残っておらず、新田木崎町交差点に木崎宿を示す石碑が建てられている程度である。
(長命寺)
木崎宿に到達した天狗党は、長命寺にて先遣隊の伝令の兵と会った。伝令のもたらした情報により、例幣使道の先には伊勢崎藩兵約三百が待ち構えていることが分かった。武力衝突を避けた天狗党一行はここで南に進路を変更した。
長命寺
木崎宿色地蔵
(矢抜神社)
矢抜神社
(最勝寺)
最勝寺
木崎宿を出た天狗党は、下枝の矢抜神社、最勝寺を抜けて、世良田へ入った。
東武伊勢崎線世良田駅は無人駅であるが、新田氏所縁の世良田東照宮や新田荘歴史館、長楽寺などが点在しているため、駅前で無料自転車を貸してくれる。この自転車で矢抜神社、最勝寺、木崎宿まで一回りした。
なお、世良田氏は、徳川家の祖といわれる。世良田駅前には「徳川氏発祥の地」という木標が建てられている。
徳川氏発祥の地
(長楽寺)
長楽寺
長楽寺は、新田氏の祖新田義重の子、得川義季を開基とし、承久三年(1221)に創建された東日本最初の禅寺である。戦国末期には寺運は著しく衰退したが、徳川家康が関東の地に封じられると、天海僧正を住職に任じて復興に当たらせた。天海は境内を整備し、伽藍を修復し、末寺七百余ヵ寺を擁する大寺院に成長させた。しかし、明治維新によって徳川幕府が崩壊すると、荒廃するに任されたが、最近になってその歴史的価値が認識され、各方面の支援を得て、再興されている。
開山堂
新田家累代墓
開山堂の裏に新田氏累代の墓地があり、そこに幕末明治期に活躍した新田俊純やその父道純の墓がある。墓地は雑草が生い茂り、蜘蛛の巣が縦横に張っている。もう少し維持保存に手を入れてもらいたいものである。
従四位男爵新田俊純墓
新田俊純は、文化十二年(1829)、新田道純の長男に生まれた。新田岩松家の嗣子として安政元年(1854)、家督を継いだ。慶応三年(1867)、上野の金井之恭、大館謙三郎らが新田氏の遺臣と称して新田勤王党を組織した。その首領に推戴された。こと露見して党員らは岩鼻の獄に繋がれたが、東山道先鋒総督に東下に会い、高崎における勤王の誠意を披瀝し、中軍随従を命じられ、ついで大総督宮より大隊旗を授与されて、上野国戸倉おける会津軍追討を担当した。慶応四年(1868)五月、朝臣に加えられ、菅沼左近将監触下の中大夫、江戸鉄砲洲開市門の守衛、市中取締に就いた。明治六年(1873)、検査寮出仕。明治二十七年(1894)、年六十六で没。長女は井上馨の妻となった。東京谷中にも墓があり、長楽寺の墓は遺髪を収めたものか。
新田道純の墓
太鼓門
太鼓門は、鼓楼とも呼ばれ、江戸初期の建造。楼上に太鼓をかけ、寺の諸行事の合図に使用された。
忠霊塔
忠霊塔は、昭和二十一年(1946)に世良田村によって建てられた。忠霊塔には、明治十年(1877)の西南戦争から太平洋戦争までの二百四十五名の英霊が祀られている。
西南戦争では、この地出身の柿沼谷吉という兵卒が戦死している。
(世良田東照宮)
世良田東照宮
徳川家康が亡くなると、その遺体は日光東照宮に葬られたが、当時日光輪王寺と長楽寺の住職を兼ねていた天海は、家光による日光の改修以前の旧社殿の一部を、徳川氏発祥の地である世良田の長楽寺境内に移築して、東照宮を勧請した。
つまりこの場所は、幕末倒幕に挙兵した新田俊純とその幕府を開いた徳川家康が背中合わせで同居しているという不思議な空間なわけである。
(太田市立新田荘歴史資料館)
東照宮に隣接して新田荘歴史資料館が開設されている(昭和六十年(1985)に開設された東毛歴史資料館が改称されたもの)。地方の資料館としては驚くほど、立派な施設である。入館料二百円。資料館の前には新田氏が生んだスーパースター新田義貞像がある。
新田荘歴史資料館
新田義貞公之像
展示はこの地域の原始・古代からの歴史に関わるものから、新田義貞が活躍した南北朝時代、さらに江戸時代に至る出土品、武具、錦絵などが展示されていて、大変充実している。個人的には、新田俊純が残した「武者絵」(明王院蔵)が目をひいた。
幕末、新田氏の末裔と称する岩松氏が現在の太田市下田島町に屋敷を構えていたが、生活は決して楽なものではなかったようである。岩松義寄(よしより)、徳純(よしずみ)、道純、俊純の四代は、生活の糧を得るために「猫絵」を大量に残した。「新田猫絵」は、養蚕の大敵であるネズミ除けとして人気を集めたというが、多分、ネズミ退治にはあまり実効はなかったのだろう。それにしても猫絵が四代にもわたって描き続けられたということは、新田氏の血筋がそれなりに有り難かられたということを意味している。
(明王院)
明王院
明王院は、新田義貞が居住した安養寺館跡といわれ、境内には、千体の不動明王像をピラミッド状に積み上げた千体不動塔(延享四年(1747)建立)がある。
不動尊
不動尊の文字は、新田道純の筆によるもの。
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