(養源寺)
天量院殿璣山道璇大居士
(井戸覚弘の墓)
井戸覚弘(さとひろ)の墓である。井戸覚弘は、天保十三年(1842)、使番見廻兼帯により目付に任じられ、その後、長崎奉行に転じ、累進を重ねた。弘化三年(1846)、琉球に通商を求めた仏艦や、嘉永二年(1849)、遭難した船員の引き渡しを要求する米艦の対応に当たった。安政元年(1854)、ペリー二度目の来航では、林大学頭復斎、鵜殿長鋭、伊沢政義らとともに、米国使節応接掛として、交渉の任に当たった。同年三月、日米和親条約を調印するに至る。更に、その年の五月には、下田開港に伴う下田追加条約の締結、調印、批准交換に至るまで、常に全権の一員として活躍した。安政三年(1856)町奉行から大目付に転じたが、任半ばで死去した。
(浄心寺)
浄心寺
正六位佐々倉桐太郎墓
幕臣佐々倉桐太郎は、嘉永六年(1853)、ペリー来航時には応接方として中島三郎助と米艦に赴いた。安政二年、海軍伝習生として長崎に留学。二年後には江戸で築地の軍艦操練所教授方となった。万延元年(1860)の遣米使節に随行した。帰国後は、肺患のため一時療養したが、浜御殿内の海軍伝習の業務に復帰。明治元年(1868)正月には軍艦役となった。幕府瓦解後、徳川家に従って静岡に移り、静岡県権少参事。明治四年(1871)、兵部省出仕。明治八年(1875)病のため辞職するまで海軍兵学寮に勤務した。同年、四十六で病没。

天量院殿璣山道璇大居士
(井戸覚弘の墓)
井戸覚弘(さとひろ)の墓である。井戸覚弘は、天保十三年(1842)、使番見廻兼帯により目付に任じられ、その後、長崎奉行に転じ、累進を重ねた。弘化三年(1846)、琉球に通商を求めた仏艦や、嘉永二年(1849)、遭難した船員の引き渡しを要求する米艦の対応に当たった。安政元年(1854)、ペリー二度目の来航では、林大学頭復斎、鵜殿長鋭、伊沢政義らとともに、米国使節応接掛として、交渉の任に当たった。同年三月、日米和親条約を調印するに至る。更に、その年の五月には、下田開港に伴う下田追加条約の締結、調印、批准交換に至るまで、常に全権の一員として活躍した。安政三年(1856)町奉行から大目付に転じたが、任半ばで死去した。
(浄心寺)

浄心寺

正六位佐々倉桐太郎墓
幕臣佐々倉桐太郎は、嘉永六年(1853)、ペリー来航時には応接方として中島三郎助と米艦に赴いた。安政二年、海軍伝習生として長崎に留学。二年後には江戸で築地の軍艦操練所教授方となった。万延元年(1860)の遣米使節に随行した。帰国後は、肺患のため一時療養したが、浜御殿内の海軍伝習の業務に復帰。明治元年(1868)正月には軍艦役となった。幕府瓦解後、徳川家に従って静岡に移り、静岡県権少参事。明治四年(1871)、兵部省出仕。明治八年(1875)病のため辞職するまで海軍兵学寮に勤務した。同年、四十六で病没。
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