夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

のれそれ雪とろけ隊活動

2012-01-29 16:47:46 | 私と福祉とであいの旅
1月29日(日)9:00~12:00


 快晴の朝、「のれそれ雪とろけ隊」の活動日である。きょうは過日の弘前大学での特別講座で紹介したとおり、学生5名と市民1名の参加を得て、総勢10名のチームで、岩木山弥生地区の屋根の雪下ろしで汗を流した。結果的には3件の訪問を行った。
 昨日までずっと雪は降り続けたこともあって、かなりの降雪量があったことが伺われた。理工学部の学生2,3年生は、今回の活動が初めての様子だった。でも結構新鮮だったのか一生懸命雪と格闘していた。

 

 出発前に少し屋根の雪下ろしでの注意事項をオリエンテーションし、現場でも屋根の上で転倒している学生に、注意するポイントを教えた。

 3件とも高齢者独居世帯である。それほど危険な屋根はなかったので、少し安心した。

 一応全員が屋根の上には上がったので、そこそこに自身がついたことだと思う。ボランティアセンター事務局李教授から心配の電話をもらった。

 それにしてもこの日は快晴の一日で、絶好の雪下ろし美伴った。

 民生児童委員の方が挨拶に来たり、知り合いの方が差し入れにも来てくれて、ありがたいティタイムもあった。しばらく高齢者の皆さんも、安心の時が確保できたのではないだろうか。

東日本大震災論・弘大特別講座

2012-01-29 06:32:16 | チームオール弘前
1月27日(金)

 朝から雪が降り止まないばかりか、厳寒の一日で踏む雪がギュッギュッと音を立てていた。凍(しば)れた日の雪は、音がするばかりではなく、一度粉砕すると細かく砂のようになってまるで「鳴き砂」かと思うような音でもある。冬の寒さもまた味な演出がある。

さて、この日は午後4時から弘前大学での特別講座「対人支援ボランティアの必要な視点」という題目で、約90分の講話の時間を頂いた。学生60名、教員4名の参加だった。
 近頃人前で話をするのは意識的に少なくしようと考えていたせいか、過日の横浜町での社会福祉大会以来久しぶりである。宮沢賢治を少し紹介した。

 宮沢賢治は、明治三陸地震(直後の大津波で2万2千人犠牲に)の2ヶ月後に生まれ、誕生4日後に内陸直下型の陸羽地震に遭い、亡くなる半年前に昭和三陸地震(3千人犠牲)の惨禍を見た、という
(山折哲雄著『絆』より要約)

 最初の大地震は1896年6月15日に起きた。「三陸地震津波」という地震としては奇妙な名前が付けられている。
 賢治が生まれたのは1896年8月27日だ ったから、生まれる2ヶ月前のときであった。

 もう一つの地震は1933年6月15日に起きた「三陸地震」である。プレートを断ち切る巨大地震だった。賢治が没したのは同年の9月21日で、死の直前であっただけではなく、その前1931年に倒れて以来、賢治は肺炎でずっと病床にあり、遺書もすでにしたためていた。なお、名作「雨ニモマケズ」を書いたのは、倒れた年の11月だと推定されている。これは生前に発表されることはなく、賢治の死後、手帳に書いてあるものが発見されたのである。

「雨にも負けず」 宮沢賢治

雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の朝にも負けぬ 丈夫な体を持ち
欲はなく 決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを 自分を勘定に入れずに
よく見聞きしわかり そして忘れず

野原の松の林の陰の
小さな茅葺き小屋にいて
東に病気のこどもあれば 
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくても良いと言い

北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
みんなにデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず
そういうものに 私はなりたい


 これから交流支援をボランティ活動として取り組もうとしている学生たちに、障害者福祉、高齢者福祉の心理的特徴の視点でお話をさせていただいた。