夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

POEM 様々な人生

2012-01-20 06:24:43 | つれづれなるままに
快晴の朝
日差しが
老人ホームを
差している
きょうも
老人T氏が
廊下から
岩木山に向かって
手を合わせている
八十歳を超えて
入所してきたT氏は
かつて
樺太へ出稼ぎに行き
それきり
家族を捨て
現地妻と家庭を持った
子を成し
平穏な日々が
続こうとしていた矢先
ソビエト軍が
終戦後の数日後
樺太は
銃弾の雨に
さらされ
彼一人だけが
いのちだけは
長らえることになった

真冬の
弘前市の
路上で
倒れていた彼は
警察に保護され
その後
精神病院に入院し
そして
老人ホームへと
入所して来たのだった
彼の家族は
妻も子も
健在だったが
当然のごとく
遺棄されたことが
仇となって
ついぞ
面会や
交流も
期待できないまま
3年が経過した
自暴自棄となった
彼は
様々な問題行動の中
退所騒動寸前となった
彼と一緒に
その朝
岩木山に合唱し
彼と対話した

余命幾ばくもなく
自分は
捨ててしまった家族に
合わせる顔もない
しかし
一度でも
子供の顔を拝み
謝りたい
そう語ったT氏
数度の
家族への連絡で
ようやく
長女だけが
面会に来てくれた
すでに長女も60歳
涙を流しての
数分間の沈黙は
50数年間の
この家族の
血の出るような
嘆きの乾くような
時間としても
流れた気がした
よく来てくれたと
T氏は涙で濡れた顔を
娘に向けた
娘も
母の悔み、恨みを
告げた後
会いたかったことを
T氏に告げてくれた
もう二度と会えないが
今こうして
父親の
元気な顔を
見ることができたと
告げていた

娘が歸った後
T氏は
最期の目的を
果たしたかのように
平安な表情で
骸となった
人間の
血を分けたことの
切っても切れない絆
恨みも
憎しみも
哀しみも
すべてを
肯定して
なお
親愛の片鱗が
つながりとして
結んでいる
説明も
意味のない
現実の
人間の
心の動き
それは
記憶として
消えずに
残るのだ





短歌「オカリナ吹く」

2012-01-18 22:53:20 | サイクリング

・初春にきみ焼成のオカリナのこころ和みぬ希望の歌は

・還暦を目前にして鏡見つオカリナ奏でる吾の未熟も

・雪野にてトゥトゥトゥと吹けるオカリナを押さえる吾のもどかしき指

・へたっぴーそう言われても仕方なし我が自己流のオカリナの音は

・明日こそこの曲吹くぞ最後まで下のドの指わずかにぶれて

・オカリナをみな帰りたる職場にてため息のように吹きておる吾

・今はまだ一人吹くのみオカリナの如月八日は吾子バースディ

雪と向き合う季節

2012-01-18 06:44:42 | つれづれなるままに
1月17日(火)比較的穏やかな一日。最高気温+1℃(最低-3.8℃)

 弘前市の降雪量は70CENTIくらいだろうか・・・それにしても、思いの外の雪でもある。青森市は1メートルを超える積雪で、市民から悲鳴が上がっていると報道がある。具体的には除雪費と業者の除雪量や除排雪の中身でもある。住宅街はもとより車も交互通行できないとか、歩行者の歩道も論外。屋根の雪を下ろす作業を高齢者がやらざるを得ず、結果的に屋根からの落下事故や屋根雪がお年寄りの上に落ちて死亡事故もある。

 住民の助けあいはこれからますます必要度が増している。旧岩木町の冬期間ボランティア「のれそれ雪とろけ隊」は、昨年から民生委員さんの要請などで2度出動し、これまで6件の高齢者世帯の屋根の雪下ろしをしている。
 昨日はこれとは別に、町会の集会所の屋根の雪下ろしを20人ほどの住民の手で行った。私達の町会は、とりあえず今のところまとまりと実行力、協力度はすこぶる良いのが嬉しい。本来はこうした地域福祉の課題は、自助と共助、公助という3者の相互調整力で解決できたはずなのだが、如何せん都会化した意識と高齢化社会の進行による戦力低下は否めない。
 私達の町会のメンバーの特徴は、一応年代別に戦力が構成されており、それぞれの力が均等に働いていることかも知れない。どんなにヤル気があっても、年代の偏りがあればたちまち、中身が問われてしまう。自治の力は言われて行うものではない。
 私も参加して屋根に上がったが、さすがに胸のあたりまで雪は積もっていた。雪も最初に降った雪から堆積されるので、見ていると4層から5層にわかれているのが解る。私はその層ごとに雪を切って下に投げていた。無理をして作業を進めると、想わぬ腰を痛めるなどが後の本来業務に支障が起きる。降った雪の状態はそれぞれ異なっていて、その時の温度、降雪量で、雪質や重さも違っている。
 また、トタン屋根に上がるときに注意しなければならないことは、雪止めがあるかないかという点である。雪下ろしをする時点の気温によって、屋根雪が融ける危険も出てくる。融けると雪はトタンの上で滑りやすくなって、落下事故にもつながる。
 雪止めのない屋根では、雪を10Cmほど残したほうが、その後の雪下ろし作業もやりやすい。トタンまで雪面から出してしまえば、たちまち屋根の上での転倒しやすい環境となりやすいのである。自分一人で雪下ろしを行う場合や、同じノウハウを持つ人と雪おろしをやる場合は、比較的安心であるが、その差があるとたちまち問題が出てくる。建物によっては、つららが屋根の先端に下がっているのだが、この氷塊が落下すると一気に屋根雪が滑落する恐れもある。また、雪は屋根の上側から下ろすか、下側から下ろすかという方法論もある。私が最初に教わったのは、トタン屋根では上側から下ろすことで、危険がかなり減るということである。下から下ろすことによって、屋根雪が一気に滑落する危険があるからである。そして万が一トタン屋根を歩くときは、トタンの凸部に足を載せて歩くことによって、滑る危険度が減る。昔は長靴に荒縄を一本巻いて屋根に上がったものだが、今はその荒縄すら身近にない。
 これからまだまだ雪の季節は続く。津軽の冬は2月が本場である。暑さ寒さも彼岸まで、今はまだ旧暦の12月25日だ。
 

野田村の小正月行事へ

2012-01-16 08:54:43 | チームオール弘前
1月15日(日)AM6時に弘前を立ち、一路野田村へ向かいました。総員46名でした。

 AM9時30分に野田村役場前に到着しましたが、晴天のこの日はまったく雪もありません。でも吹く浜風は無性に肌を刺し、しばれる感じです。たちまち手指、耳たぶは凍傷にかかりそうな冷たさです。
 野田村はこの日「小正月行事」で、どんと焼きや大黒舞、餅つきなどで村民がつどい、交流して楽しみました。
 神主さんの祝詞や関係者の玉串奉てん、村長さんの挨拶などの後、いよいよ「どんと焼き」の始まりでした。炎が強風に煽られ、火の粉が飛ばないように、門松などの上には金網がかけられていました。
 またも餅をまゆの形に作った「まゆ玉」を吊るすというように、農作物の豊作を願う形式も会場には見られ、ひとりひとりが色のついたまる餅を願い事と一緒に桜の枝につけていました。


 野田村の昨年は、ほとんど津波で被災した人々の対策を含め、復興計画の年だったといってもよかったのかもしれません。本当にこころから喜べない状態から、少しずつではあってもその復興の兆しを、村民の方々も感じられて来たのではないでしょうか。
 堆かったがれきの山々も、昨日は運搬処理作業が進んで先が見えるほどになっていました。
 三陸鉄道の復旧工事もかなり進んでいました。
 私たちボランティアも昨年8月末でいったんがれき撤去作業を終了し、以後村民への心理的支援活動という形で移行してきました。
 8月「復興祭」10月「塩の道ウオーキング」11月「男和佐羅比山登山」12月「クリスマス」そしてこの1月「小正月行事」支援活動です。

 昨日も「チームオール弘前」のユニフォームを着ていると、村民の皆さんの温かな声や表情を見るにつけ、私たちボランティアへの感謝の念が感じられとてもうれしく思いました。そしていよいよこれからこのユニフォームではなく、本当に個々の面識と信頼感の上に野田村の人々とと弘前市民が心からの友人として、相互交流活動ができる時代に入って行けるのだと思いました。

 

 昼食をバス車中でいただき、どんと焼きや行事の後片付けをお手伝いしました。そして初めて参加の人たちのために、津波の被災エリアを見学するために移動しました。
 野田村の海沿いを走る国道45号線、十府ケ浦海岸、そして三陸鉄道、西に下って下安家漁協などを車中から見ました。甚大な被害を受けた下安家川漁協の鮭ふ化場も再生し、通常営業を行えるところまできたと説明を受けました。津波は鮭のふ化場も飲み込んだそうですが、それでも鮭は川を遡上してきたそうです。そのことがふ化場の関係者を勇気づけたのではないでしょうか。

 この日の私の楽しみにしていた「なもみ」は、残念ながら午後5時からの登場ということで、バスは野田村発午後2時の予定のために諦めるしかありませんでした。
 「なもみ」とは、岩手県版「なまはげ」のことです。ナモミは囲炉裏のそばに座って終日動かずにいると、囲炉裏の熱さで赤みが膝に残ってしまうが、それを剥ぐ(怠ける気持ちをはぎ取る)ことをいう。ナモミ剥ぐが、「なまはげ」に転化したものらしいです。

 このことはとても残念に思っていたところ、帰途「道の駅大野」にバスが立ち寄ったのです。すると車窓から「ナモミ」を見る光栄に預かったのでした。
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 恒例となった車中での個別の感想披露は、それぞれの思いは異なりますが、総体的な声としては、住民との交流がこれほどありがたくうれしいと感じられたことはないのではないかと思うことです。それはチームオール弘前のメンバー2000人を超える方々の、4月からずっと時間と労力を積み重ねて来たからこそ得られた信頼関係だからです。
 8月末までのボランティア活動は、ひたすら「がれき撤去作業」だったこともあるのかも知れません。
 チーム北リアスの渥美先生が言われていたように、「寄り添うことの大切さ」を9月以降は特に感じてきました。
 どんなに私たちが野田の人たちのために良かれと思う活動をしても、それはまた日常生活という中では「見送る人」と「見送られる人」という関係なのだからです。寄り添う関係とは、そばにいつもいるという関係をいうものだとすれば、それはまた弘前市という遠距離の位置では、難しい状況もあるのです。その気持ちをまたもちつつ、野田村を訪問し続けたいと思っています。とりあえずは毎月最低1回の訪問活動をすることで、野田村を見続けることを自分に課していくつもりでいます。一緒に野田村と弘前でお花見ができること、それが今年の一番の夢かもしれません。

 

井上ひさし「四千万歩の男」/第五巻読了

2012-01-14 17:50:26 | 私の本棚
1月14日(土)

 「四千万歩の男」最終巻を読了した。(675ページ)

 江戸時代の面白さは、鎖国という閉ざされたが故の面白さという感じを持つ。例えば歌舞伎の女形や、浮世絵という版画文化も江戸文化の一つではないだろうか。
 そしてもう一つ私がこれかと思うのは、江戸の町の公衆トイレ文化である。第五巻の中には、下肥がお金になるという話が出てくる。当時の野菜作りに欠かせない肥料(下肥)は、今では考えられない価値のある時代だったらしい。
 今やこの現代社会は化学肥料全盛時代であり、そんなことはドリフターズのカトちゃんでしか肥え桶を担ぐ姿でしか見ることはない。

 「四千万歩の男」の中に一貫してあるもの、それは内儀のお栄のサポートの姿かもしれない。無頓着で小心の伊能ではあるが、彼の周辺にいる彼の支援者は優しいまなざしでいつも目的の達成できるように彼を支援していた。それは伊能にとって剣がたとえ竹光であっても、彼を守る上ではこの上ないものであったはずである。
 
 結局伊能忠敬の日本全図は江戸幕府は「伊能絵図」としてしか、ほとんど評価した形跡はない。そういう意味ではこの後、ペリーが浦賀に来て慌てふためくだけで、伊能忠敬の地図そのものは幕府として使いこなせなかったということになるのだろうか。
 人生50年という時代にあって、結果77歳まで日本全土を歩き地図を作った伊能忠敬の願いは叶ったのだ。
 我々は今の時代でも、定年という隠居時代が目の前だ。その時第二の人生をどのように意味あるものにできるのだろうか。我々人間はなんのために生まれ、その命をどのように生かしきって死んでいくのだろうか。
 そのことが問われているような気がしている。
 

演劇仲間

2012-01-07 22:24:36 | 私と福祉とであいの旅
1月2日(月)18:00~

 8年ぶりに演劇仲間が集い、弘前で40年間も「劇団ばっけ」を主宰した川崎さんが幕を下ろした。そのご苦労さん会を駅前の飲み屋で開催したのである。10人ほどのメンバーが集い、川崎さんを慰労すると共に、8年ぶりの再会を懐かしんだ。
 2003年12月旧岩木町の文化ホールあそべーるで、「きみがいるから」というテーマでのユニバーサルアクション「全盲ランナー誕生物語」「障がいのメンバーやこれまでに出会った音楽家が揃い、舞台上で手話で私の作詞した「きみがいるから」を演じ歌った。私達のユニバーサルアクションは、それから5年間にわたり津軽弁の福祉劇を開催した。身体障害・知的障害・精神障害などを市民参加型で募って3ヶ月間も夜の練習を行なって本番を迎えた。川崎さんは演劇指導で私たちを応援してくださったのだった。川崎さんは全くあの当時から変わっている風もなく、健在だった。この間に出演者の一人が急逝した。その方の追悼公演をしませんか?というと、皆さんの心は少し動いたような気がしました。これから風は吹くでしょうか?

井上ひさし「四千万歩の男」/第四巻読了

2012-01-04 07:02:17 | 私の本棚
2012年1月4日(木)-5℃ 曇り

 暮れの29日から年越しの準備をして、ケアホーム暮らしの娘たちの元気な姿も迎えることができ(28日)新年を迎えることができた。雪も年越し以来大したこともなく、まずまずの正月である。今日4日は一般には仕事始めとなるのであろうが、我が法人にとっては開設記念日で今日までが休業日である。ただし、どうしても介護できない人たちのためには年末は30日まで新年は昨日3日から「日中一時支援事業」というサービスが開業している。つまり法人の事業は年に3日だけしか休まないことになっているのだ。
 さて、例年は義妹夫婦が新年1日にはやって来て、お盆と年に2度だけの宴会が始まるのが恒例になっていた。義妹の夫は大赤字を抱える町の財政課所属の地方公務員でストレス溜りの男だ。更に私と同じ大学の後輩でもあり、「箱根駅伝」の常連校でもある。そのために2日から3日はテレビの前で駅伝を肴にして酒を酌み交わすのだ。今年は6日に来るという知らせを義妹から聞いた。体調が悪いのだというが、よく考えるとそれは一つの言い訳で、実は出身校がシードから外れたため、それが多少は悔しいのかも知れない。そういう意味で日延をしたのではないかと邪推している。お陰でお酒の相手をするという私自身のストレスや、義妹夫婦が喫煙家でもあるのでその習慣上の違いでのストレスからは解放されるのが少しだけ先送りされたように感じている。

 というわけで、年越しと正月三が日はテレビは可能な限り見ずに、読書三昧で過ごしている。

 今朝は正夢かと思うようなリアル過ぎた嫌な夢を見て、午前5時に目覚めた。そのためにいつもより多少早めに読書を始め、井上ひさしの「四千万歩の男」第4巻を読了した。677ページもあったが、この巻の内容はほとんどが測量に焦点は当たっていない。伊能忠敬の人柄が、読み進むうちに次第に一つの傾向を持って表されているのがわかってきた。つまり忠敬は測量だけに旅をしたのではなく、行く先々で出会う人々との間に人間関係を取り保とうとする「捨ておけない」という優しい心の持ち主であるということだ。これはもちろん忠敬の出自が百姓であり、その後に苗字帯刀を許されるまでにはなったが、結局は旗本などの武士から見れば同じ舞台には立てないことをどこかで悟っているのではないか。
 天文学者としてのプライドは武士の魂という刀を持たず、竹光を帯刀しても、むしろ自らの星の観察に便利だと考えてさえ居るのである。
 それよりも間もなく解体するであろう鎖国制度や、幕府と、その旧態然とした価値観(それは士農工商などの制度やしきたり)の解体は新しい日本の姿を予感させても居る。

 第1巻の三厩村での座頭衆の命を木喰上人と共に救うために尽力したり、第2巻(634ページ)では、蝦夷地でのアイヌへの視点はまさに人間として武家とアイヌのどちらが正義かという視点を忠敬は持っているということを示していた。

 第3巻(605ページ)は蝦夷地の測量を終えて江戸へ戻る途中に、青森の三戸で嫁取りのための「嫁市」に遭遇する。天明の大飢饉で親を亡くした男女の連れ合いを見つけるための行事である。その行事の中で忠敬の息子がひょんな事でその嫁市の対象者と間違われ、結果本人もその気になって百姓として婿入りをすると言い出したのだ。

 忠敬が日本の地図を歩いて作るという夢は、実は「本邦子午線一度の長さの実測」こそが本来目的であり、地図はその副産物でしかないということだった。そういう意味ではわざわざ自腹を切っての調査の旅は、公儀に届けてまでこの計画を遂行せねばならないのかという疑問がある。唯一それが必要であるといえば、金の問題ではなく、公儀の御用という御旗を立てることによって、手続き上の問題をクリアできるのかも知れない。諸国行脚の問題点は、現在のビザのごとき通行証が必要であり、他国を通行するには関所での吟味がある。更に宿や馬の調達、船、案内人などの調達という新たな問題も多いのである。
 公儀はわずかばかりの助成金を出していながら、その命令と忠義を尽くさせるという意味での、姑息な仕掛けを次々に打ってくる。
 いつもピンチに立たされながらも最終的には、何やら知らぬ援護の力が働いて忠敬一行を救うのである。

謹賀新年

2012-01-03 15:57:59 | つれづれなるままに
1月3日(火)

 「絶えず進め より遠くへ より高みを目指せ」 (ツァラトゥストラはかく語りき)

「どこからきたか」ではなく 「どこへ行くか」が最も価値あるものである。


 長女の障がいを診断した医師に若き父親は尋ねたことがある。「何故障がいを持って生まれてきたのか?」すると医師はこう諭してくれた。「どうして生まれてきたかではなく、どう育てていくかが問題なのだ」と・・・。

 以来若き父親は、その医師の言われた言葉を反芻しながら、娘たちの本当に幸せな道を探し求めて進んできた。
 今その時から35年間が経ち、初めてそのことの正当性を実感している。私たち両親自身も、かつては障がいをマイナスとして捉えていた時代があった。しかし、今は確信して言える。障がいは極めて可能性のある、人間としての成長過程であると・・・。そのためには諦めずに一人の普通の人間として接遇し、あらゆる社会参加の機会と、あらゆる楽しみの環境を提供することである。時間はかかっても、必ずその答えは娘たちによって示される時が来るのだと。


 新年明けましておめでとうございます。

 今年、私は2月8日で「満60歳」になります。ここまで一応健康で、そして目指してきた目標をかなりクリアできていることに満足しています。でもニーチェ曰く、「絶えず進め より遠くへ より高みを目指せ」は、現状で満足してはいけないことを示しています。
 私に与えられた課題を乗り越えるために、また一歩ずつ進んで行こうと思います。そのための「夢発電」なのだと思います。今年も皆様と喜びを分かち合いながら、コミュニケーションできたらと願うばかりです。
 どうぞ本年もよろしくお願いいたします。
 

 自宅の玄関の「シャコバサボテン」が花を開きました。