夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

年賀状について

2013-01-07 06:43:04 | つれづれなるままに
 「年賀状」の元旦到着のためには、年末25日までに投函しないと間に合わないという。結局暮れもなんだかんだと用があって、結局大晦日にほぼ書き終えて残りを投函した。そして新年を迎えて、この年賀状について思うことがある。それは出す側ともらう側の「人間関係性」の話である。
 そもそも人間関係の中で見ると、遠方にいることを除けば、以前はともかく現在までほとんどというか全く関わりを持つことすらない場合である。
 年賀状が機械で印刷されるとか、印刷屋で印刷したもの、宛名を手書きのものなどがある。若い人からは携帯電話での「明けオメ」もある。
 一言でも手書きが添えられていると、ああまだこの方は私と関わりを持っても良いと思っていてくださるのだなと思うことができる。あるいは最近はデジカメとかパソコンの普及により、家族の近況を写真で伝えてくださる方もある。私も最近風景写真や、家族の写真を印刷して送ることがある。これはこれで、ああ元気なんだなって感じることができるのである。
 しかしどこを見てもなんにも添え書きがないと、本当に味気ない。むしろ不安にさえなる。私が年賀状を出さなければ、この方はほっと安心するのかもしれないなどと妄想的になっている自分がいる。

 そもそも年賀状は何のためにあるのかを、もう一度考え直したほうが良いのかもしれないと思っている。
 年賀状の元々は年頭挨拶を訪問して行う代わりに、年賀状を出すものであったのではないだろうか。だとすれば、挨拶には伺う関係性ではないという方に出す必要もないのかもしれないと思う。いつも会える関係、例えば職場内の上司部下の関係とか、近所関係では儀礼廃止を唱えて久しい。

 そして何よりも年賀状が元旦配達されることの重要性が、果たしてどこにあるのかということを私は言いたいのである。
 元旦配達に価値があるようなPR方法は、「年末○○までに出せ」という強迫観念を抱かせることにつながっている。
 一夜明けて新たな年を迎え、「自分や家族が健康で新年を迎えられたことへの感謝」と、だから「今年もお付き合いをよろしくお願いします」という思いと「健康で幸せな一年をお過ごしください」・・・という願いをとどけることこそが年賀状の大切なことではないのはないだろうか。
 
 多様な価値観があっていい。私の友人知人の中には、あえて年賀はがきを使わないで挨拶してくる方や、クリスマスに挨拶をしてくる方もいる。年をとったからこれでおしまいと挨拶をしてくる方もいる。
 年賀に限らずほんとうにこころを寄せている方同士では、旅先や絵を添えたはがきなどをくださる方もいる。心が近いと感じる一瞬でもある。
 
 「年賀状」について果たして皆さんは、どんな思いをお持ちであろうか?