夢発電所

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No.14 臨時の野田村活動~仮設住宅転居準備

2011-07-01 05:31:52 | チームオール弘前
 さて、この日のミッションは「仮設住宅への生活用品搬入支援」である。4箇所の仮設住宅があり、午前午後にかけて、布団・物干竿・テーブル・食器などを各室に運び入れた。この日の圧巻は、私と三上隊長にとってはこの上ない自転車での移動であった。ふたりは岩木町のサイクリング協会の会員でもある。


 MB(マウンテンバイクの乗り心地はこんなに良いものかと思うほどで、7段階のギア付きだからスイスイで現地門前小路へ到着。ここの仮設には全部で18戸(1DK5戸、2DK10戸、3K3戸)うち空室4戸で36人が入居予定である。

 図のような配置の仮設住宅に大型貨物に入った寝具類の大箱を運び出して並べ、そこから各部屋への人数分の生活用品を運び入れるのだ。初めて仮設住宅へ足を踏み入れたが、4畳半の畳の部屋と、洋室、トイレは一応洋式トイレ、台所という形でコンパクトである。屋根は雪が1メートルの積雪に耐えられるというから、このエリアにも降雪はあるのだろう。
 最初の仮設住宅は、町の中心部から徒歩で20分程度だろうか。その場所が終えて、次の場所まで25分程度自転車を走らせて、泉沢地区の仮設へと入った。川沿いにあるこの仮設住宅は木造で、杉の木を使用して建てられていた。もうひとつの特徴は集会所が別棟として建てられており、入り口までは木造ではあるが車椅子も移動可能なスロープと、兼用の障がい者トイレ、IHの湯沸し機があった。そして15畳の和室は、畳と木の香りもあって和みそうである。
 

 午前中の作業は野田村役場の職員(女性含む7名)さんたちと、日本災害救援ボランティアネットワーク(Nippon Volunteer Network Active in Disaster =NVNAD)の渥美理事長とスタッフも一緒に活動を行って汗した。
 渥美理事長とお話をして、仮設への物資の搬入だけが目的ではなく、どういうところに問題があるのかを点検するチャンスでもあるとのこと。参考になるお話しであった。
 この仮設住宅は1DK7戸、2DK25戸、3K7戸、合計39戸であり、39人の入居が決まっているらしく、9室がまだ空室であった。地元のご婦人二人が子犬を連れて、話しかけてきた。子犬は聞けば8歳というから、そこそこのお年でした。柴犬なのかとても人懐こい。ご婦人の一人は大槌町に住んでいて、津波で皆持っていかれて、こちらに身を寄せているという。「皆様ご苦労様」ということであるが、とっても笑顔のすてきなご婦人二人でもあった。黄色い我々のジャンパー姿は弘前市のイメージでもあり、「ナドワド通信」が読まれているとのことでした。

 午後からの作業は車での移動で、米田(まいた)地区は津波の被害甚大な三陸鉄道の線路下をくぐって海岸側から山手の地区に入った場所である。
 この仮設住宅も木造で、集会所が一般住宅と一体型である。スロープも設置されていて良いのだが、コンパネは雨や雪の時は滑って大変だろうなというのが印象である。何故皆同じいいものを使えないのか、各仮設住宅ごとに公平性のなせる落とし穴が潜んでいる気がした。

 最後が下安家(しもあっか)地区という、かなり標高の高い山手にあって、すぐ下が国民宿舎「烏帽子荘」駐車場である。現在この宿舎は営業停止中で避難所となっているとのこと。眺望は良くて、太平洋の海原が一望できる絶景も見られる。
 

 木造の建物は感じは良いが、入口が狭く、さらには階段が4段もある。建物そのものの住み心地もあるが、一番感じたのはこんなに遠い場所では、買い物や通院、自分の前に住んでいた場所との距離なども含めて自家用車がなければとんでもなく不便である。急な坂道を歩くことだけでも容易でない高齢者に取っては、ますますヒキコモリとなるのではないかと心配する。2年間という期間であるとしても、2年間で認知症が進んだり、寝たきりになる危険性が感じられたのは私だけだろうか。県社協職員に聞けば、役場に必要な買い物をFAXすれば、届けてくれるという。便利さの裏に潜む、生活感の無さと怖さでもある。
 この場所には1DK1戸、2DK8戸、3K1戸の計10戸22人が入居が決まっている。(空室2つ)

 結局「門前小路」の仮設に22人、泉沢地区に38人、米田地区が51人、下安家地区が22人で、合計133人が7月2日からの引越しにつながるのである。

 我がグループの作業はPM2時40分頃には終了した。そして車で移動するやいなやの強い雨で、前方が見えなくなった。いつも思うことであるが、作業をしているときはほとんど雨にあたった経験がない。何か守られている感じのする野田村の作業である。
 役場に戻った我がグループ8名であるが、もうひとつのグループ(8名)が作業が終わらず、結局いつもと同じPM4:00に野田村を発った。

 これまでガレキや仕分け作業のみだったものが、今回はいよいよ仮設住宅への転居支援ということもあって、個々の生活のスタートが準備されるのである。そういう意味では、とてもやりがいのある新鮮な一日であった。

 蒸々の汗を流してきみ笑顔仮設住宅野田村の夏
 

県学生ボランティアネットワーク「虹」設立記念報告会

2011-07-01 04:48:17 | 東日本大震災
6月29日(水)PM6:00~PM8:00
 この日の報告会への私の参加は、たまたま5月26日にたまたま公立大の三上氏に招かれた席上で出会いがあり決まったことである。5月27日に公立大学での三上氏の授業に講師として招かれて講和することになっていたために、彼の事務所に夜で向くと学生たちが15名ほど集まっていた。翌日の三上氏の授業に出られないという学生たちが私の話を聞きたいということで集まってくれていた。その中のメンバーに今回の災害ボランティアネットワークを立ち上げるという代表2名がいて、6月29日が決まったのである。

 設立代表者、副代表者2名が設立経緯を説明し、報告会が始まった。前半が虹の代表者のこれまでの災害ボランティア活動の報告と、もうひとつの団体「県立保健大学」の学生サークル「めいと」からの報告」があった。
 その後私の「野田村からの報告」を得て、この日のパネルディスカッションに移った。実はもう一人のパネラーがいたのだが、体調不良でおいでになれず、急遽私と「虹」の代表・飯村氏「NPO法人あおもりラジオクラブ」 専務理事 小笠原氏の進行で進められた。青森市には地元のラジオ局がなかったことから、小笠原氏が立ち上げたというインターネットを通じて報告会の模様が配信されていた。
 そして私には心強い助っ人の学生・北大教育学部・三上氏が会場に来ていたので、急遽前振りを依頼して野田村報告は圧巻となった。
 まずは県内の意識ある学生たちによる「災害ボランティアサークル」のネットワーク化の今後の可能性は、連帯による被災地の復興効果はより新たな局面を見いだせそうな予感を感じたのである。
 それは弘前大学の学生ボランティアセンターにとっても、その参加と連帯が、相互の社会学の具体的実践へと向上させていくものと思われる。
 野田村に限って言えば、復興のスピードがこのところかなり急ピッチで進んでおり、時間経過と共により住民福祉のニーズが次の局面へと移行し始めている。それは避難所から仮設住宅や、家屋修復などによる生活の再会がそれである。次の段階ではガレキなどの撤去作業から、個別支援へと移行していくのだろうと思う。その時に学生たちのマンパワーと社会人の専門性が生きてくるのだと思った。保健大学の学生は「社会福祉学科」「看護学科」があり、いわば卒業後には「相談支援」や「医療現場での看護やリハビリテーションコアスタッフとして働くのである。今回の震災という大きな教室で臨床体験を積むことは、その後の彼らにどんな一カラを与えてくれることだろうか。
 報告会終了後の懇親会で、さらにその確信は深まっていった。