音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

楽劇<ニーベルングの指環>第1夜<ヴァルキューレ> (リヒャルト・ワグナー)

2009-06-28 | クラシック (小品・その他)


リヒャルトワーグナーという音楽家は、実は、私から最も遠いところに存在している。

こういう訳のわからない発言をする度に、私を良く知る友人たちは皆、揃って怪訝な顔をする。「あんたがワーグナーから遠いというのならこの中で一体誰が近いんだ?」と。ワーグナーの生き方、又、求めた物、後世に残した影響、不思議な程の自信という辺りは職業は違うが、私が最も近いところにある、らしい…。しかし、実はワーグナーが遠いところにあるというより、わが尊敬するブラームスと対局する存在だったから、要はこの歳になっても余りちゃんと曲を聴いていないというのが正しい。

ワーグナーが考えた標題音楽というのはとても良く理解できるし、彼の目指した壮大な世界観というのは、恐らく過去に生きた音楽家の中では飛び抜けた発想だし、今後も彼を超える人は出てこないであろう。だが私の場合は絶対音楽という考え方の方が基本的に好きなだけだ。音楽は音楽という世界とか規格の中でのみ完結し機能する。無論、総合芸術という観点はすごい事であるが、それは音楽家の領分ではない。但し、例えば後々に印象派画家と音楽家が共同作業をしたような現代でいうコラボレートは全く別次元である。そう考えると、標題音楽推進派の中でも、取り分けワーグナーは一人だけ飛び抜けた発想と構成力を持っていたことは事実で、彼がもし現代に生きていたら、多分100年にひとりの映画監督、巨匠中の巨匠と呼ばれていただろうと憶測する。又、もうひとつ音楽界にとっての幸運は、この偉大なるワーグナーの後継者であるマーラーが師と同じ道を進まなかった事にある。このことについては、いずれマーラーに関連するところで書く。

さてそこで、夏休みレポートによりにもよって、なんでこの曲を選んだかは簡単で、「ヴァルキューレの騎行」という、一風変わった、且つ印象の強い名曲を知っていたからで、「G線上のアリア」や「トロイメライ」と同じパターンである。しかし驚いたのは、この楽劇「ニーベルングの指環」の恐ろしい程の長さである。しかもこれはオペラという当時は私自身にとっては未知の分野であった。まだ自宅にもレコードがなかったが、幸いにもピアノ教室の奥様先生がオペラには一際造詣が深く、同時に私の夏休み自由研究の試みに痛く感動されて、レコード鑑賞会を開こうと仰られた。先生のご提案で流石に楽劇全部は長いので、名曲「ヴァルキューレの騎行」の入っている第一夜にしようということになったのである。しかし、この4時間30分の間、今振り返ると音楽を聴いていたのか先生の解説(だけでなく、一緒に声を張り上げたり…)を聴いていたのか、未だに良く分からない。あれ以来、今日迄、実はあまりワーグナーはちゃんと聴いていない。だから私から一番遠いところに勝手に存在させてしまっているのである。

そろそろワーグナーをちゃんと聴く(というかやっと聴けるような)年齢になったんじゃないかと思う。


こちらから試聴できます。


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