すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

テント

2020-04-20 13:32:02 | 山歩き
 昨日は山登りに絶好の日和。風も爽やかだし、公園ではツツジも咲き始めているし。例によってベンチで空を見上げながら、ため息をついていた。「見よ 今日も かの蒼空に 飛行機の高く飛べるを」(石川啄木)とか「白い雲は流れ流れて 今日も夢はもつれ わびしくゆれる」(サトウハチロー)とか「空の色の 忘れな草を 髪に飾り思えば」(ドイツ民謡)…とかを口ずさんだりしながら。
 一週間前に、「今週は思い切って高尾山・城山ぐらいは行くことにしよう」と書いたが、果たしていない。山登りはもっとも濃厚接触の少ないスポーツ、とはいえ、外出自粛の横紙破りをあえてするのも気が引けるし、ぼくも高齢者だし、家族の白い目も無視しがたいし…
 あ~あ、山登りはあと何年かしかできないのになあ。
 結局、林試の森を歩いている。ジョギングをしている人は多いが、リュックを背負っているのはどうもぼく一人のようだ。変わり者、ってことだろうか。
 6キロから始めたウエイトも、12キロになった。山では8~10キロぐらいは背負って何時間も歩くのだから大したことはないのだが、山登りはそれだけしかしないのに対して、日常生活ではほかにいろいろあるので、結構キツい(若い頃は、20キロぐらい背負って縦走するのは平気だった…なんてこといま言っても仕方ない)。
 まだ世間が「クルーズ船が」「屋形船が」と報道している頃、品薄になる前に、と思ってテントを買った。前に、「75歳になったらテントを買って、山登りのスタイルを登攀型・縦走型から高原滞在型に変えたい」と書いた(19/03/29) が、ちょっと予定を早めた。
 仮に夏までに感染が下火になったとしても、「ペスト」で言うように、ウィルスは消滅したのでも無力化されたのでもなく、どこかに潜んで次の機会を待っているだけなのだから、夏の山小屋の雑魚寝は避けた方が良い。昔の八ヶ岳や穂高岳では頭と足を交互に寝るのを「オイルサーデン」と言ったものだが、今はそれほどではないが、それでも混んでくれば畳一畳に二人くらいのことはある。それは避けたいのでテントを買った。
 稜線にテント場はたくさんあるが、そこまで担いで上がる体力は今のぼくにはもうないので、登山口か、せいぜい途中、急登になる手前でテントを張って、山頂まで軽荷でピストンするということになる。そういうテント場はあまり多くはないが、ないわけではない。記憶を辿ったりガイドブックをめくったりしながら候補地を今から探すのが、山に行けない今の慰めだ。
 ただし、そうは言っても、そこに行くまでに、15キロぐらいを背負って3時間ぐらいは歩けるようにしておかなければならない。
 やれやれ、とベンチから立ち上がる。
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