すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

自分の言葉

2018-05-08 23:16:10 | 
 今日は朝から、T.S.エリオットの「灰の水曜日」の第一の詩の冒頭部分が頭から離れない。というか、頭の中でリピートされている。

この人の才、あの人の器をうらやんで
ふたたび振返ることは望まないから
ふたたび振返ることは
振り返ることは望まないから
才能や器量を追い求め、あくせくあがくことはもうしない
(年老いた鷲が翼を広げたところで何になろう)
日頃世に君臨した力の消失を
嘆いたところで何になろう…

 むろんぼくはカトリック教徒ではないから、このフレーズが、および「灰の水曜日」の全体が、近似的であるとはいっても、ぼくの気持ちにぴったり当てはまるわけではない。
 それでも、その時々、自分の気持ちを代弁する言葉がふっと思い浮かぶのは便利なものだしうれしいものだ。
 先日(5/3)の「言葉なき歌」もそうだ。
 でも、もしかしたら、これは問題なのかもしれない。
 自分の言葉で何とか表現する苦労、自分の中からぴったりした言葉を引っ張り出す努力、をしないで済んでしまうのだから。
 これらは近似であって、ぼくの心そのものではない。
 でも、苦労や努力をしても自分の表現ができるわけではないんだよね、なかなか。自分の心の声をつぶやいているように見えても、だれでも思うような類型的な現代的な言葉をなぞっているだけ、っていうのがすごく多い気がする。
 それならば、詩歌という膨大なカードケースの中から自分の気持ちにかなった一枚を取り出す方がずっといい。
 ぼくの日常の喜怒哀楽なんてちっぽけなものよりは、はるかに豊饒で、しかも文化という時空を超えた広がりにつながっているのだから。
 まあ、自分の言葉で気持ちを表現する努力もしてみようとは思うが。
(冒頭のエリオットのフレーズはぼくにとっては、無念の言葉ではなく、慰謝の言葉だ。念のため。)
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