はくちょう
川崎 洋
はねが ぬれるよ はくちょう
みつめれば
くだかれそうになりながら
かすかに はねのおとが
ゆめにぬれるよ はくちょう
たれのゆめに みられている?
そして みちてきては したたりおち
そのかげ が はねにさしこむように
さまざま はなしかけてくる ほし
かげは あおいそらに うつると
しろい いろになる?
うまれたときから ひみつをしっている
はくちょう は やがて
ひかり の もようのなかに
におう あさひの そむ なかに
そらへ
すでに かたち が あたえられ
それは
はじらい のために しろい はくちょう
もうすこしで
しきさい に なってしまいそうで
はくちょうよ
…小山台高校のグランド横の古本屋に、中央公論社の「現代の詩人」シリーズのうちの数冊が一冊200円で出ていた。1958年から59年ごろに刊行された12人の詩人のアンソロジーだ。本文の下に小さな緑色の字で詩集と代表的な詩の解説がついている。緑のほうが黒よりも早く褪せるらしく、色が薄くなって読みにくい。
何冊かはすでに持っているので、川崎洋と清岡卓行のだけ買った。清岡の詩はこれまでほとんど読んでいない。川崎は若い頃から愛読してきた詩人だが、ぼくでも理解できる解りやすい詩が多いので、解説付きの詩集を買うことは考えなかったのだ。
ぼくの大好きな詩を、とりあえずひとつだけ紹介してみる。「はくちょう」という作品だ。戦後に書かれた詩で、もっとも優しく美しいものではないだろうか(「いやいや、もっと優しく美しいのがあるよ」と思う方がいたら、教えてほしい)。
これは「優しい」詩だが、かならずしも「易し」くはない。論理的に意味を考えようとすると、よくわからないところはある。でもこれは、意味を追わなくてもよいのではないだろうか。一度読んだだけで、美しさと優しさが心にしみる。
この詩を歌いたくて、知り合いの現代音楽の作曲家に依頼してみたことがある。現代音楽らしい、スケールの大きな、だがぼくには難しい曲になってしまった。
そのことを知り合いのシンガー・ソングライターに話したら、しばらくして彼が「書いてみましたから、良かったら歌ってください」と言って楽譜をくれた。彼の性格の良く出た、メルヘン的な曲だったが、ぼくがこの詩に持っていたイメージとは違った。
ふたりの曲が優れていなかったわけではない。考えてみれば、ぼくは具体的な明確なイメージを持っていたわけではないので、おそらくどんな曲でも同じことを思っただろう。ふたりには済まないことをした。
結局ぼくは「はくちょう」を、詩としてだけ愛することにした。一人でいる時に、そっと暗唱してみる。人に聞かせるものではない。ぼくだけの「はくちょう」だ。
でも昨日、家に帰ってさっそくこの詩の載っているページを開いて、ふと思った。
ぼくがかつてあんなにこの詩が好きだったのは、ひょっとしたら、青春のナルシズムが紛れ込んでいたのではないか? それに、現実世界の生きにくさの思いが、現実を越えた世界への憧れをこの詩に重ねていたのではないか?
だからと言って、この詩の美しさが少しも失われたわけではない。むしろ、老いを生きている今、ナルシズムや現実逃避的な願望が消えたあと、そっと声を出してみれば、このひらがなの言葉の響きはいっそう心にしみる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます