すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

流離―「かぐや姫の物語」(1)

2019-01-22 21:49:09 | 無いアタマを絞る
 この間から気になっていたので、ジブリのアニメ「かぐや姫の物語」のⅮⅤⅮを借りてきて見直してみた。あらためて心に沁みた。少し泣いてしまった。どうもぼくは、かぐや姫には思い入れが強すぎるようだ。
 何回かに分けて、思うことを書いておきたい。

 日本文学の古典「竹取物語」といちばん大きく異なる点は、アニメでは姫の都に出るまでの成長の過程、赤ちゃん時代、野山で木地師の子供たちと遊びまわる時代、を詳しく(およそ30分に渡って)情感豊かに描いていることだろう。ここがアニメの物語の肝でもある(「竹取」では「3か月で成人ほどの大きさになった」としか書かれていない)。
 ここがあることによって、翁と媼の姫に対する情愛も十分に描かれる(たとえば媼は、姫を育てるために乳さえ出るようになる)し、野山で思い切り笑い、遊びまわる姫の幸福感も十分に描かれる。ここがあるからこそ、都に出てからの姫の悲しみが胸を打つものになる。ここはまた、自然が美しい。季節が美しい。
 梅が咲き、鶯が鳴き、椿、タンポポが咲き、蝶が羽化し、コブシ、藤、ツツジが咲き、鳥が雛を育て、タケノコが育ち、ウリ坊(イノシシの赤ちゃん)が親のあとを走り、露草、アザミが咲き、梅の実が実り、ヤマセミが魚を捕り、セミが鳴き、ウリが実り、秋の虫が鳴き、満月が冴え、アケビが熟れ、枯葉が落ち、ヤマブドウが熟し、キジが飛び、キノコが採れる。アニメならではの美しい自然が移り行く中で、幼い子供であるかぐや姫は五感の全部で感じ、仲間を得、成長してゆく。
 「竹取」のかぐや姫は月に帰らなければならないと知るまでは悲しみを知らない。石上の中納言が死んだと聞いた時にわずかにあわれと感じるだけだ。情感は薄い人ではないかと思えてしまう。
 「竹取」は、いわゆる「貴種流離譚」で、これは古今東西の羽衣伝説、御伽草紙の「鉢かつぎ」、アンデルセンの「野の白鳥」や「人魚姫」、「みにくいアヒルの子」…などなど世界中に流布する、この世を生きる人間の生きるゆえの悲しみを表現した説話だが、アニメの「かぐや姫の物語」では、姫は二重の流離を生きなければならない。
 ひとつは月の世界から地上への流離だが、それ以前に、豊かな自然の中での何の曇りもない生活、仲間、子供の時の完全な幸福感からの流離。彼女が都に上がって、成人してまず味わうのはこの流離感だ。
 都で暮らすようになっても、男である翁は、そういう気持ちを全く感じていない。媼は、夫には黙って従うものの、屋敷の奥に小さな庭を持ち、土間を持ち、糸を紡いで機を織って、かつての暮らしを忘れないようにしている。姫はその庭に鳥や虫を見つけ、ミニチュアの自然をこしらえたりするが、それだけでは心を満たすことができない。
 だから、翁が貴人たちを招いて催したお披露目の宴の途中で癇癪を起こし、発作的に田舎に帰る(夢を見る)が、そこに見出すのは、かつての家には別の人が住み、懐かしい人たちは立ち去った後の、冬枯れの自然だ。   
 かつてそこで梅の咲く頃からキノコの実るまでの季節(その間に彼女は赤ちゃんから少女までを経験した)だけを過ごした彼女は、炭焼きに教えられるまで、春が再びめぐりくることすら知らない。そして、今はすべてが枯れてしまった季節だと知った時、失意のまま、都に帰って行き、いったんはそこでの生活を受け入れようとする。
 都での生活、季節など意に介さない人たちの中での生活自体が、流離だ。ここで思う。彼女の流離の悲しみがぼくたちの心を打つのは、それがぼくたち自身も知っていたはずの感情、あるいは、ぼくたちの心のどこかに無意識のうちに引っかかる感情だからではないかと。
 現代の都会に住むぼくたち、貴種ではないぼくたちも、自分をはぐくむ基盤であるはずの自然から離れ、幼年期の全的な充足感・幸福感から離れ、姫と同じに流離を生きているのではないかと。  
 彼女の悲しみは、それを感じる心さえあれば、ぼくたちの悲しみでもあるのではないかと。
 この物語はここで、ぼくがこのブログでたびたび書いていること(そこにこだわりすぎているかもしれないこと)とぴったり一致するのだ。
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