東京教組(東京都公立学校教職員組合)

教職員のセーフティーネット“東京教組”

「国民を守る」ための武力って何?

2016年02月29日 | 日記

 集団的自衛権行使の安全保障法が成立した。
 周りの国の中にはいつ攻めてくるかわからない国もあるから、「国民を守る」ための武力行使を米軍などと一緒にできるようにした。使って良いときといけないときの「条件」をはっきりさせているから心配ないということらしいが、憲法ですら、あってなきがごとくに勝手に解釈しようとしている人たちが、いくら細かい「条件」をあげたって次々拡大解釈していくことは目に見えている。憲法で禁じられている武力行使を、できるようにしさえすればあとはやりたいだけやるようになるだろうという、私にはそれが心配でたまらない。
 「力の均衡」で平和が保たれるという考え方は、それもひとつの考え方だとは思うが、それが戦争につながっていくということは、歴史が証明している。
 「戦争は人の心を変える」という言葉を被爆された方から聞いた。
 目の前で死にそうな人がいたら、なんとかその人の命を助けようとするのは人の自然な感情だ。何かの災害があったり、大きな事故があったとき、国や民族に関係なくその人たちの命を救おうと、世界中の人たちは協力する。
 それが、戦争となると全く逆になる。「戦争は最大の人権侵害」と言った人がいたが、戦争では、あれほど大切にされていたはずの人の命を奪うことが正当化される。東京大空襲、沖縄戦、広島、長崎の原爆・・・たくさんの罪のない人たちの命が奪われた。そのとき、多<の人たちは考えた。アメリカが悪いとか日本が悪いとかいう問題ではない。戦争が悪いんだと。
 靖国神社参拝をした安倍首相は、「国に殉じた人に尊崇の念を」と言ったそうだが、「国民を守る」ために死んでもいい「国民」がいるということがまずはおかしい。いくら「尊崇の念」をもたれても。その人の命は、奪われた人生は、返ってこない。ひとつでも奪われた命があるならば、「あなたの命を守れなくて申しわけなかった。」が指導者の言葉であるだろうし、自分が直接の責任者でないなら「二度とこういうことはおこしません」とその人に言うのが筋ではないのか。戦争で亡くなった人に「尊崇の念」を言うことは。どんなに口で「平和」を言っても実は「国のために戦争する」ことを美化していることになる。
 武力行使は、決してそれだけですまない。当然相手も武力行使をするだろう。武力行使の結果は、確実に戦争につながる。その結果は太平洋戦争を振り返れば明らかである。そのときになって、戦争は間違っていたと言ってももう遅い。
 武力をもって、武力に対応することでの平和はありえない。アフガンで人道支援を続ける中村哲さんは、「9条に守られていたからこそ、私たちの活動も続けてこられた」と述べている。
 武力を行使しないということで、お互いの信頼関係は生まれる。一歩間違えば人類破滅という今のこの世界で、武力を行使しないという日本国憲法が、実は「国民を守る」最大の武器ではないのかと、私は思っている。