東京教組(東京都公立学校教職員組合)

教職員のセーフティーネット“東京教組”

神様と仏様

2016年02月17日 | 日記

 東京新聞の心のコーナーを読んでいたら、「神様と仏様」の違いについて書いてあった。
 日本人は、12月25日にはクリスマスを祝い、一週間もたたないうちに、初詣に出かける。宗教に関して「融通無碍だ」とはよく言われることである。
 さらに、このごろは、商売とタイアップする形で、様々な宗教的行事が世の中にあふれるようになった気がする。たとえば「ハロウィン」や「恵方巻き」のように。
 で、「神様と仏様」の話である。以下は、東京新聞1月16日朝刊の「現代日本人の神仏観(上)木村文輝さん)にによる。

 「神も仏もないものか」とか、「神様、仏様、稲尾様」(古い!わかる年代はかなり限定されることだろう)なんて、神と仏を一緒にしがちだが、実は、微妙な使い分けをしているというのである。元々、神様(特に神道としての)と仏様を分けるようになったのは、明治以降であり、それまでの日本人はいわゆる「神仏習合」で神と仏の存在を明確に区別せずに崇拝するのが、伝統的な姿勢であったという。しかし、両者を全く同じものととらえているわけではないそうだ。それが神と仏という言葉を使い分けている事実である。たとえば、「野球の神様」や外科医の名手を「神の手を持つ」という。また、「神業」や「神懸かり」こうした言葉は、神を仏に置き換えることはできない。逆に、優しく慈悲深い人を「仏の○○」といい、心穏やかな状態を「仏の境地」といったりする。(「まぁしょうがない今回は許してあげよう」というときは、「仏心」ともいうなあ。と納得)というように、日本人は、「神」を特別な技術や力エネルギーの持ち主で、それを人々に分け与える存在とみなし、「仏」は、欲望をはじめとする様々な力やエネルギーを鎮める存在、あるいは慈悲深い存在だと見なしている。

 というのである。木村さんはこれを「仮説」といっているが。
 これを読んで、長く疑問に思っていたことが少し納得できたような気がした。それは、新美南吉の「ごんぎつね」にでてくる兵十と加助の会話である。ごんが、栗や松茸を兵十に届けていることを知らない兵十は、加助に、「このごろ不思議なことがある」と話す。それに対して加助が「そりゃあ、神様の仕業だぞ」と答えるのである。二人は、この話をする直前に村人の家で行われた「お念仏」に参加したばかりなのに、なぜ、「仏様」でなく「神様」だったのだろうと、不思議に思っていたのである。さらにいえば、こんなことを疑問に思うという人にも出会ったことがないのだが、、、。しかし、木村さんの「仮説」による「神」と「仏」の違い(役割分担)を考えると、合点が行った次第である。