東京教組(東京都公立学校教職員組合)

教職員のセーフティーネット“東京教組”

学校を「プラットフォーム」に

2016年02月26日 | 日記

「子どもと女性の人権を考える東京の会」の1/31(土)に行われた学習交流会で「子どもの貧困にどう取り組んでいくか~学校を「プラットフォーム」に~」末冨芳さん(日本大学准教授)のお話を伺った。

末冨さんは内閣府の子どもの貧困対策検討会の委員をしていて、セーフティネットが子どもに届いていない実態と、貧困の多元的な捉え方(①所得が貧困線を下回ること②高卒未満の教育にとどまっていること③公的年金などに非加入であること④日常生活に支障を来すほど健康に問題があること)や、貧困の連鎖を断ち切るためのプラットフォームとしての学校の位置付け=「学校プラットフォーム化」について、行政の施策や海外でのとりくみにもふれながら、詳しく話してくれた。
 
印象的だったのは、イギリスの学校を視察したときのお話。貧困地区に建てられた立派な学校の写真に、参加者からは感嘆の声が上がった。学校は格差をうめる場所でなければならないという考えに基づき、最先端の物を子どもたちに与えるそうだ。TVゲームのソフトまで用意するのは、子どもが子どもの社会から排除されないようにという配慮。
またこの地区には、養育の不十分さに起因すると思われる発達の遅れのある子どもが多く、授業中の飛び出しもよくあるそうだ。だが仮に飛び出しても、ぐるぐる回ってクールダウンして教室に戻ってこられるように校庭を作ってあるので、自ら戻るというソーシャルスキルを身に付けられるようになっているという。貧困層だからこそ豊かな体験をさせるという理念のもと、様々な取り組みが成されていた。

末冨さんは学校プラットフォーム化を進める手立ての一つとして、スクール・ソーシャル・ワーカー(SSW)の配置を挙げている。学校は子どもに寄り添い、ケースワーカーや児童相談所などの関係機関は保護者に寄り添い、互いに協働できるようSSWが調整をして、子どもの貧困問題を改善していく仕組みを早く作っていくべきだと説明してくださった。学校が全てを担わされていることが多いが、教員が弱ると子どもも弱るので、役割分担をして長く続けることが大切なのだという。

先日、市教委の指導主事と話をする機会があり、SSWの設置について聞いたところ、市役所内に部署を作ったり予算配分を始めていたりと、思っていた以上に進んでいることが分かった。

末冨さんは「最低でも全国の中学校区に一人のSSWを政府は早急に実現すべきだ。テストのスコアを上げることが大切なのではなく、教わったことが分かることが大切。夢がもてれば自分を大切にするようになり、そうなればいわゆる「学力」も向上する」と力強く話していた。力になる言葉をもらった学習会だった。

 末冨さんのお話を聞き、私は不登校学級にいた一人の女子生徒を思い浮かべた。彼女-A子は朗らかで絵を描くのが得意、そして勉強熱心な生徒だった。友達を作るのも早いので、一体なぜ不登校に?と不思議だった。ある日、穴の空いた上履きを窮屈そうに履いていたので買い換えを勧めたところ、「お給料日がきたら…」とうつむいた。たった数百円の上履きが今買えないなんて。しかし、それくらい経済的に厳しい家庭だとしたら、A子が学校に通えなくなった理由に説明がつくように思えた。学年が上がり交友関係が広がってきたとき、「遊びに行こうよ」と誘われても家にはお金がない。友人を作るのにも不安で仕方がなかったのではないか。高校進学の時期になり、面談でA子の母親は開口一番、「中学校を出たら働いて、家にお金を入れてもらいたい」と言った。隣に座ったA子は目を潤ませながらも無言。ちょうどA子が進学する年から高等学校の授業料が無償化されることになっていたのでそのことを伝え、在学中にお金がかかっても、生涯賃金は高卒の方が上であるからと進学
を勧めた。無償化を知らなかった母親は少し乗り気になったが、やはり収入を優先したい様子。そこで昼間働ける定時制高校の話をしたところ、そんな学校があることも知らなかったということで、A子は自宅に近い高校の定時制に進学することができた。あの時授業料が無償化されていなかったら。近所に定時制高校がなかったら。と思うと今でも胸が痛くなる。セーフティネットの大切さを実感したできごとだった。


人類の一員だから

2016年02月26日 | 日記

 今は亡きロビン・ウィリアムズがジョン・キーティングという国語教師を演じている『いまを生きる』という映画を見た。
 授業で詩に対して形式的な説明がつづく教科書に対し、ジョン・キーティングは生徒に、その教科書を破るように指示を出す有名な場面がある。
 今の日本の教育現場では「教科書を教えるのではなく、教科書で教えるのだから、教科書の内容に不足があったら事前に準備しておくのが当然であろう」といわれ、教科書を破らせる行為に対して非難が集中することだろう。破る行為の是非はともかくジョン・キーティングはその時「私たちが詩を読み書くのは、人類の一員だからだ」と生徒たちに丁寧に説明している。この台詞は、数年前の某コンピュータの宣伝で放送されたこともあるので、ご存知の方も多いかも知れない。架空の人物ながら詩を読み書く理由を「人類の一員だから」と言い切ってしまうジョン・キーティングのすさまじさと『いまを生きる』の制作スタッフの感性に深い感銘を受けた。「人類の一員だから」という言葉は、まさにこのように使うものなのだとも思った。
 最近、誰かが「国際社会の一員としての貢献」と演説で使っているが、それはどうも違うような気がする。