その1、稲作農村の成立
江戸(東京)と結ばれた東郊農村誕生
東郊とは、江戸幕府が開かれてからの
江戸、明治時代から東京の大都市食料生産地の東方に位置することから始まる。
東郊とは、江戸川区・葛飾区・足立区とその周辺を示しています。
東郊農村の誕生
東郊地域は、
丘陵地の多い西郊(多摩地域)に比べて、大河川の下流域にあたる平坦地域です。
そこに生まれた農村は様々な特徴があり、
現在の足立区、葛飾区、江戸川区の発展の基礎となっています。
↑ 東郊の範囲
①農村の生い立ち
②昭和10年ころから20年ころの集落風景。
③東京の米どころ
④
米作りに必要な水
ご飯茶碗ん1杯(約150g)のコメを育成するには、
2リットルのペットボトル270本(540リットル)が必要です。
東郊地域は感潮河川のため、
川の水が使えないので、上流からの真水や溜井を作り上流部から取水利用した。
感潮(かんちょう)=川のことば
川が海に流入する河口部では、
川は潮の満ち引き(潮汐)の影響を受けます。
海の水面 が上下することで、海水が入り込んだり、潮汐の川の水位が変動します。
河川水中の塩分・水位・流速などに周期的な変化を受ける河川,
この区間を感潮区間(かんちょうくかん)と言います。
利根川河口の潮止め堰は、ここに詳しい
稲作農村の成立
江戸に幕府が開かれると、未開発の地が多かった東郊(足立区・葛飾区・江戸川区)の
開発が急激に開発が進みました。
用水が整備され水田を中心とした耕地は、
都市に近いことから重要なコメどころとなりました。
水は、目と鼻の先にありました(荒川、中川、江戸川)。
河川から水をくみ上げると、塩害で稲作は全く成長できなく枯れてしまいます。
ここにも「水を治める者は、国を治める」の言葉通りです。
遠方はるばる、埼玉は利根川・栗橋の方から
取水してきた人、井沢弥惣兵衛為永、伊奈忠克の尽力が偉大であったかがわかります。
次回は、東郊地域の用水(溜井)について。
『水』をいかに遠方から取水してきたことについて書きます。
コメ欄は閉めています。