富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

「物流端末拠点」を行政が設計する余地

2017年11月14日 | Weblog

基層社会は、古代より徒歩を交通手段とする日常生活エリアが存在してきた。これを画期的に変化させたのが、自動車交通の発達である。ところが、高齢者の自動車免許の返納により、改めて徒歩を主にする生活者の割合が増えてきた。それで、徒歩で10分から20分の範囲の日常生活エリアを最末端のローカル・コミュニティが、空間機能として意味をもつようになる。とはいえ、これは持続的な傾向ではなく、今後、10年から20年程度の一時的な現象である。そのために、恒常的な制度を設計する必要はない。あるとすれば、コミュニティを循環するバスの経路や停車場所の緻密化で補うことができる。

では、基層社会は、どの程度の空間エリアに落ち着くのが良いのだろうか?実は、これは難問題である。一つには、公共交通の利便性が大きなポイントであるが、それだけでは、自動車交通の発達を前提とした住居群の空間分布とは整合しない。「広い無料で利用できる駐車場」を提供できるショッピング・モールは、まだまだ恒久的な集客力を失わない。だから、徒歩圏という最小の空間エリアへの巡回サービス業は、今後、10年から20年の持続性しか想定できないが、個人の起業にのみ期待しないで、ラスト・ワンマイルの物流サービスにつき、郵便、宅配、新聞配達などの「物流端末拠点」を行政が設計する余地は、まだ大いにあると思われる。ラスト・ワンマイルの物流サービスを、端末で複合化・一体化する余地が残されている。


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中国語の「談判」と、日本語の「対話」の違い

2017年11月12日 | Weblog

日本メディアの政治・外交の方面の勉強の不足は、同じ漢字の文化で、大きなニュアンスの違いが理解できていないことにある。中国語の「談判」は、「難問題の交渉」という意味である。決して、「対話」という語感の意味ではない。敵対的な関係にあるAとBとが、和解が困難である課題につき妥協点を求めて交渉する、という中国の外交の専門用語である。日本でいう「文明の対話」というような親密な関係が、その背景にある接触ではない。敵対勢力が、これ以上に関係を悪化させないために、好ましくないが交渉のテーブルに着くという意味である。習近平政権は、国連の安保理で決議された「経済制裁」条項を順守する立場で、北朝鮮と敵対したうえで、「朝核」問題に関し「談判」の道を拓くということで、アメリカ外交、日本外交と中国外交の方向軸は、きちんと整合しているのである。

日本のメディアは、中国の外交の専門用語を理解できないでいる。米中は、「対話」の関係にあり、日中も「対話」の関係にある。しかし、中国と北朝鮮とは、「対話」関係ではなく、「談判」の関係にある。このように、同じ漢字を使用しても、語感のずれで、中国の北朝鮮問題での外交姿勢を非難するのは無知に等しい。


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時計の針を早めすぎた北朝鮮の核・ミサイルショー

2017年11月10日 | Weblog

金正恩がそれなりの指導者である。というのは間違いである。それは、核・ミサイルショーの時計の針を早めすぎたので、次の場面の大道具の準備ができませんので、お待ちください、ということになった。今、世界の各国で、意思決定と実行速度という点では、中国共産党が最速の効率であるが、同時に、計画表の時間も、世界で一番に長い。100年単位の思考法がある。国家として、国民の合意のある長期計画が全くないのが、アメリカ合衆国である。どちらも、時間がゆっくりと流れている。大国でないのに世界を二分していたロシアは、独裁に近いから意思決定は早いが、それぞれの企業が「商業的」で、長期計画に基づきながら迅速に対応できる能力を備えていない。

北朝鮮は、ここに来て慎重になったわけではない。手品の種が切れた、という初歩的なミスである。では、彼らに最大の打撃となるのは、無視である。「核保有国」という国際地位を認めて欲しい、という希望を無視し続けることである。アメリカは、北朝鮮を利用し、貿易赤字解消のため防衛装備品を日本と韓国に売りつける商人外交が本音である。したがって、北朝鮮の政権を瞬時に抹殺するのは、得策ではない。敵と敵とが、にらみ合うことで、互いの存在意義がある。北朝鮮を包囲し、飼い殺しすると、朝鮮半島に一体的な競争相手は生まれない。また、日韓関係も「反日」であることが、日本経済の競争者を追い込むことで、日本には有利である。

こうして生まれれた時間を利用し、日本の領土を攻撃目標とする核ミサイルの網をどのように払いのけるのか、実は、金正恩よりも、日本国民が試されている。日本にとり最大の危機は、金正恩との対話というありもしない幻想と、アメリカとの軍事同盟への職業的敵対勢力への甘やかしである。

 

 

 


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習近平の権威化と、財政・金融政策の相対化

2017年11月09日 | Weblog

政治、外交、軍事に関する習近平の絶対権の確立とともに、他方で、微妙な変化が生じている。財政・金融に関し、中共中央書記局が、経済政策決定の小組の「組長」とする習近平への専権集権化を解消し、習近平の個人の崇拝を妨げかねない金融リスクから習近平個人の権威を遠ざける組織運用へと変化した。「国务院金融稳定发展委员会」が発足したのである。これにより、国務院を主宰する李克強へ裁量責任制に還元された。これに従い、国家的に新たに金融委員会制度が機能しはじめ、第一回の委員会が開催された。金融の迅速性、即効性の必要に応じた現実主義的な対処である。その意味では、毛沢東の神格化と並行し、周恩来の国務院総理、中共中央のナンバー2の役割も増大するという現象とよく似た形になった。しかし、外交に関しては、国務院の機関である外交部は、中共中央の対外連絡部からみると末端にあり、極秘情報を知る立場にないことを理解しておかねばならない。つまり、日本外務省と中国外交部との交渉は、窓口と儀礼に過ぎない。専門課題に応じて、中国の政策決定の最高責任者を、中共中央の書記につき、個々に、具体的に割り出す必要がある。それを可能にするのは、政党と政党の外交である。

習近平個人の崇拝化は、他方で、市場経済原理に応じた日常的な動態変化に対し、中共中央は距離をおき、大局を監査する立場に役割を変え、国務院にリスクを負わせる分業と、逆に言えば、李克強のナンバー2としての実質的な役割の増大という現象に注意せばならない。ただし、周恩来のような外交権は、李克強にはない。経済・財政・金融の専門家を束ねる役割に限定される。


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「読売新聞」、もう一皮、大人になれ!

2017年11月05日 | Weblog

「朝日新聞」は、創刊以来、大衆迎合の紙風が抜けきれない。戦前は、国威発揚を煽り、戦後は、護憲を煽ってきた。大衆迎合とは、国民の進路を「二分法により、扇動する」論法である。小泉進次朗の街頭演説も、共産党の機関紙も、「戦争か、平和か」の二分法である。バカの壁は、損か、得かの二分法にある。

「朝日新聞」か、「読売新聞」が、これも二分法である。だから、「読売新聞」でも、北朝鮮問題の世論調査では、「圧力」か「対話」か、この二分法で国民に質問している。だれでも、語感から「対話」を是とする。「戦争」か、「平和」か、と問うたに等しい。

まず、北朝鮮は、ソ連共産党のスターリンの決裁により、朝鮮労働党を結成させ、伝説の金日成将軍をでっち上げた政権であること。朝鮮戦争の経緯、さらに、彼らの対日工作の歴史、さらには拉致被害の深層、特に政府部内のネグレクトなど、歴史事実を丁寧に検証する記事を我慢づよく掲載することである。

そして、北朝鮮の歪みを根気よく啓蒙することで、朝鮮半島の非核化、という命題には、「圧力の極限から、先方の非核しか、非核国としての日本の対話が可能にならないという説明を根気よく進めることである。北朝鮮問題の世論調査で、「圧力」か「対話」か、これは愚問すぎた。


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習近平の思想のキャンペーンは、自動ブレーキ

2017年11月05日 | Weblog

「習近平の思想」のキャンペーンは、日本にとり実にありがたい効果を生む。毛沢東の個人崇拝は、モノゴトを深く考えられない非知識社会で成立する。同じく、毛沢東の個人崇拝の再来といわれる宣伝工作は、中国の真にモノが見え、自力で問題解決の糸口をみつける力のあるナレッジワーカーの役割を抑え込む。毛沢東崇拝は、中国経済の不調とともに強化された。こうした個人崇拝は、異文化だから、日本には関係ないと思うが、実は、習近平はアクセルを踏んだように見えて、自動ブレーキを同時に起動させたことを理解すれば、日本には有利なので、習近平さんは偉いという立場でよい。外国だから、顔と腹は違えても非礼ではない。

中国では、ほぼ省の単位で、中国共産党の派閥が形成される。党学校が、基本、省ごとに設けられるからである。習近平政権は、毛沢東時代に決定的に不遇であった国民党の影響力が強かった広東、福建、浙江、上海に人材供給源を求めている。また、陝西、甘粛という辺境に近い貧困地区もそこに属している。ところが、毛沢東の時代は、まず、湖南、湖北が毛沢東の地盤であり、これに山西人が加わっていた。鄧小平は、四川省である。江沢民、胡錦涛は、江蘇省である。こうした郷党による盛衰は、個人崇拝に近い宣伝に力を入れると、風が強いうちは全土がなびき、逆に、小さな破たんが生じると危うくなる。

メディアでは分析が郷党に偏っているが、習近平政権は、祖父母が無名でも、1949年の共産党政権の成立以前の抗日戦争、解放戦争、さらには朝鮮戦争で兵士として働いた「隠れた紅二代」に属する「紅家一族」を「革命」貴族とする系図作成し、それを参照して、人材を登用していると思われる。その踏み絵として、習近平の個人崇拝を利用していると思われる。毛沢東派として排除された祖父母の子弟も、「革命」貴族に組み込み、政権の中核のゆるやかな世襲を試みていると思われる。

これは、政治経済集団としては融解しない強硬さをもつが、同時に、判断を一人の頭脳に委ねる無責任体制が蔓延し、社会経済集体としては、経済成長のための自動ブレーキを踏み込んだことを意味する。結果、中長期的にはマイナスという貸借対照表の決算に落ち着く。結果、世界経済に負のシグナルを発することになる。


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人口減の社会の未来図からの逆算(3)

2017年11月05日 | Weblog

人口減により社会が衰退するというネガティブな思考は、経済の主体を民間力を100%だと考える思考の硬直とリンクしている。経済原理には、民間力を高める市場型経済原理にほかに、互恵型経済原理と、国家指令型経済原理がある。明治国家は、この国家指令型経済原理を100%活かしてきた。それが、郵便、電信、鉄道の国営事業の成功である。新自由主義が台頭し、市場型経済原理に一元化することで、国家指令型経済原理は後退した。ところが、他方で、政府が管理監督する社会保険。年金制度に無理が掛かり、「国家が直接に稼げない」日本国を、「国家が直接に稼ぎだす」中国に国民総生産を追い越されることになった。

国家官僚から地方自治体の職員まで、民間からの税収に寄生するようになった。国家指令型の経済原理であれば、国営の事業が公務員の給与を含めて稼ぎだすことができた。老後の生活の安定には、民間に就職する必要を生んだ。このように、新自由主義により、国家公務員がになう国家・国益の使命感は衰えることになった。また、国家公務員が経営すると、赤字体質と労働争議が常態となったために、全世界的に産業の国営化が否定された。唯一、例外なのは、中国共産党である。上級の党員は、マネジメントの実績により昇進する仕組みになった。経営を本務とする政党という職業的な管理者の自己管理組織が、中国共産党である。資本を所有せず、経営を管理する職業人を制度化したわけである。

この中国の強固な内政を参照すると、日本の場合は、特殊に日本銀行を根幹とする国家指令型経済原理の機能が、市場型経済原理を誘導できるかどうか、ここに中国に対する優位性が働くかどうかであるといえる。日本銀行は、既に世界市場において存続し、発展させるべき企業経営人と、査定し、縮小・解体するべき企業の選別を進めている。おそらく邪魔になるのは、独占禁止法である。当面は、日銀のデザインする「人口減の社会の未来図」が一番にしっかりしいることをまず確認しておきたい。金融の頭脳が狂って、第2次世界大戦へののめり込みに加担した日銀は、実に正確に歩んできたが、「バブル経済」と断言し、外科手術を行い、大失敗を犯した。もう一度、日本銀行が失敗したら、日本国は中国文化圏の技術部門に転落することは確実である。


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人口減の社会の未来図からの逆算(2)

2017年11月05日 | Weblog

日本の社会が、歴史的に人口増になった要因を整理しておく。まず、人口が意識され始めたには、戦国時代からである。つまり、武士が階級として政治社会を掌握した織田信長から始まる。そこで、「父性の絶対権」が確立した。それから、江戸時代に入ると、各藩が統治する領国の経済力は、農業、漁業、林業、運輸に依存するので、人口の増加イコール領国の経済の成長という好循環が始まった。そのシステムの極点が、第二次世界大戦である。ここで、「父性の絶対権」が瓦解しはじめ、遂に、「女性戸主」制度が生まれることで、日本社会は戦時中より戦後にかけて、500年前にあった伝統的な「母性社会への回帰」ベクトルが始まった。

戦後社会は、労働力と家産の蓄積が相関する枠組みで、「母性社会」も多子を好む時期があったが、1人当たりの国民総生産額が向上するにつれ、性別を問わないで、子供の高学歴化が進展し、中学卒業と同時に就職する慣習から、高校への全入を風潮とする社会に転じた。そこに立ちはだかるのが、教育費の負担の関係で、1人当たりの教育費の負担を最大化するために、少子化と教育投資とが部分最適となった。今後、幼児から大学生まで「公的な教育費を無償化」しても、子供を高学歴に育てるには、「公教育の外側にある学習塾」を利用する教育投資の負担能力が、子供の将来に影響するようになった。

「公教育を無償化」しても、余裕のある家庭がさらに学校外での教育投資を可能にする。ところが、このような教育投資をしても、「母性社会」を基調とする日本社会では、「家」を持続させる仕組みよりも、「子供本位主義」が主流となり、男子は結婚すれば、妻の側の「母系親族」に組み込まれていく。

このように歴史的にみると、幼児から大学生までの教育費を無償化しても、日本の人口減にとり、なんらの解決策にもならない。ただ、地方社会には、「家産」を所有する伝統的な基層社会の核となる「父系家族」が持続している。また、首都圏でも明治以後、家産の継承を可能にしている「父系家族」が存在する。この「父系家族」の家産を解体し、「母性社会」に還流すれば、日本は留めなく「母のみ真の父親を知る」原始への回帰を生む。

では、基幹に「父系家族」を維持し、「母性社会」の伝統を容認するというのは、実は、憲法第9条の平和条項(母性の願望)と、「父系家族」文化である現実的な国防力との巧みなすり合わせが必要であることを意味している。


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人口減の社会の未来図からの逆算(1)

2017年11月04日 | Weblog

日本に人口減は、当面、高齢者の死亡数に対し、新たに生まれる子供の数が少ない現象を指している。すると、全社会的の消費面では、特に医療・介護では、需要の縮小がおきてくる。医療・介護は、ある時期に需要がピークに達し、それから下降が始まる。それで、生産労働人口を確保するため、定年制と年金支給の年齢が60歳から65歳、さらに70歳、極端には75歳まで引き上げられる。その時、高年齢者の生産労働の能力に適合した職種、働き方の研究開発を出来るだけ早く進めないといけない。

自分の経験からいうと、情報処理の能力の格差は、高齢者の労働市場の2極化を生み出す。情報処理能力は、高齢化とともに極端に低下しない。それと、慣れた職業の習慣は、高齢化とともに消滅しない。講義は90分、論文は1日、400字×15枚=6000字は、75歳までは持続した。それと、早寝、早起きになるので、午前中か、昼過ぎに完了できる勤務体制は、喜んで参加できる。夕方の5時以後の会議や業務は、翌日の疲労回復に苦しむ。だから、行政職でも定型の業務なら早朝から午前のシフトが最適である。しかも、電車が満員になる時間帯より、午前7時に出勤は体が楽であった。知識労働では、75歳までは、コンサルティングなどの対人交渉も負担ではない。

他方、出来るだけ若い世代に権限を委譲する仕組みを進め、権限者の高齢化を避けないと、組織の高い生産性は妨げられる。高齢化すると、思考が哲学的な教訓に固定し、データが語る新しい要素を見落とすことになるからだ。


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人口減に相関して減る職務量と、減らない職務量

2017年11月03日 | Weblog

医療や薬業は、日本国内の人口が減少すると、人口比に応じた罹病率から職務量が減少する。その意味では、医薬業は、国際市場への進出と、外国人の需要の国内への取り込みが、喫緊の課題である。自動車産業は、すでに国内市場の減量を準備し終えており、さらに、国際市場への対応も完成している。富山の場合、医療機器や薬業に力点を置くなら、国際化はさけて通れない課題である。

防災・消防などの領土、行政区画などの面積・地形に対応する公共サービスは、人口減に応じて職務量は減らない。しかも、外国人には代行できない業務である。こうした公共サービスの人員は、今は競争性の採用が可能である。今後、子供の数が減ると、競争性の採用は困難な時代に一気に転換する。

だから、中学3年の義務教育を終えた時点で、「警察官候補」生、「消防官候補」生など、「候補生」制度を採用する必要がある。「候補生」には、高校、大学、大学院への給費の学費支援を行う。このような「候補生」制度により、国家社会に欠かせない人材の早期確保をしないと、日本は立ち行かなくなる。大学生一般に給費生の奨学制度では、四流以下の私立大学の延命を救済するだけだ。

ともかう、富山県では、県職員として採用が必要な人材は、「候補生」制度を作り、中学3年の時点で、給費、育成のための候補者を早期育成にとりかかるべきだ。もちろん、人間であるから「候補生」は、任官を辞退できる。これは、防衛関係でも同じである。


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絶対の少数、相対の多数:安倍政治の強み

2017年11月03日 | Weblog

安倍さんという政治家の個人評価は、絶対多数ではない。あくまでも相対多数である。それは、憲法第9条をめぐる議論に象徴される。ただ、絶対の少数なのに、相対の多数の支持をえているのは、マクロ経済学をきちんと会得しているからである。これは、小泉進次朗さんの出る幕ではない。今は、日本の先端企業が蓄えた内部留保を拠出して、企業内に認定できる保育施設を充実させると、マクロ的には待機児童を減らせることに役立つ即効性のある政策である。すでに、日経連の同意も得ている。小泉進次朗さんは、自民党内の議論がなしに、内閣府が先決・専決したことを怒っている。実は、マクロ経済学的には、党内議論の熟成をまつ時間がない。それは、世界経済が4半期ごとに機敏な調整があり、今の円安の水準であれば、日本の先端企業は、本社所在地である日本の事業所内部に保育環境を整備すれば、来年4月までに稼働できる。このようなスピード感は、隣国の中国共産党の政策決定・施行の迅速性に対抗しなくてはならない状況のもと、適切な対応といえる。つまり、モノがみえるプロは、絶対の少数であるが、総理が相対の多数意見を代表することは可能なのである。企業に対する政策誘導が効果的に機能するか、否か、日本政治史におけるエポックでもある。知識は、選挙での洗礼は不要である。真実性は有効性にあるからだ。

ここでは、小泉進次朗さんの経済学知識の二流性が露呈している。


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少子化ではなく、「少子時代」日本の設計

2017年11月02日 | Weblog

少子化というのは、何とかすれば、「少子時代」が回避できるのではないか、という期待可能性に賭けた議論である。しかし、地方社会では「少子時代」に突入している。小学校の統廃合から中学校、高校再編へと進む。問題は、どこまで「少子化」が進み、日本国の基層社会の解体がどこかで歯止めが利くのか、という未来から逆算した設計図である。

実は、日本は明治以後、海外に植民地や海外移民を求めざるを得なかった潜在エネルギーがあった。それは、家族式の経営である。「多子化」と、経済成長とが結びつき、海外膨張をせざるを得なかった。ところが、現在の日本では、植民地経営よりも経営効率がよい日本企業の海外事業展開がある。しかも、世界から日本企業を排斥する動きはない。巧みに現地化を遂げているからである。

つまり、日本国内にあるのは、本社機能と研究開発の研究所の機能である。他方で、国内では、領土・領海・領空を保全し、防災にそなえるリスク対応のための人材需要がある。それで、総人口8000万人を「少子時代」と仮定し、経済成長率をプラスを0に近い水準で維持できるかの仮想設計を考える必要がある。すると、今の人口余裕をもって、全面的、全産業的な人口頭脳による業務の定型化を5年単位で段階的に構築せなばならない。これは、実は、次世代国民の道徳倫理の画期的な向上なくして成し得ない。

 


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