富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

「読売新聞」、もう一皮、大人になれ!

2017年11月05日 | Weblog

「朝日新聞」は、創刊以来、大衆迎合の紙風が抜けきれない。戦前は、国威発揚を煽り、戦後は、護憲を煽ってきた。大衆迎合とは、国民の進路を「二分法により、扇動する」論法である。小泉進次朗の街頭演説も、共産党の機関紙も、「戦争か、平和か」の二分法である。バカの壁は、損か、得かの二分法にある。

「朝日新聞」か、「読売新聞」が、これも二分法である。だから、「読売新聞」でも、北朝鮮問題の世論調査では、「圧力」か「対話」か、この二分法で国民に質問している。だれでも、語感から「対話」を是とする。「戦争」か、「平和」か、と問うたに等しい。

まず、北朝鮮は、ソ連共産党のスターリンの決裁により、朝鮮労働党を結成させ、伝説の金日成将軍をでっち上げた政権であること。朝鮮戦争の経緯、さらに、彼らの対日工作の歴史、さらには拉致被害の深層、特に政府部内のネグレクトなど、歴史事実を丁寧に検証する記事を我慢づよく掲載することである。

そして、北朝鮮の歪みを根気よく啓蒙することで、朝鮮半島の非核化、という命題には、「圧力の極限から、先方の非核しか、非核国としての日本の対話が可能にならないという説明を根気よく進めることである。北朝鮮問題の世論調査で、「圧力」か「対話」か、これは愚問すぎた。


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習近平の思想のキャンペーンは、自動ブレーキ

2017年11月05日 | Weblog

「習近平の思想」のキャンペーンは、日本にとり実にありがたい効果を生む。毛沢東の個人崇拝は、モノゴトを深く考えられない非知識社会で成立する。同じく、毛沢東の個人崇拝の再来といわれる宣伝工作は、中国の真にモノが見え、自力で問題解決の糸口をみつける力のあるナレッジワーカーの役割を抑え込む。毛沢東崇拝は、中国経済の不調とともに強化された。こうした個人崇拝は、異文化だから、日本には関係ないと思うが、実は、習近平はアクセルを踏んだように見えて、自動ブレーキを同時に起動させたことを理解すれば、日本には有利なので、習近平さんは偉いという立場でよい。外国だから、顔と腹は違えても非礼ではない。

中国では、ほぼ省の単位で、中国共産党の派閥が形成される。党学校が、基本、省ごとに設けられるからである。習近平政権は、毛沢東時代に決定的に不遇であった国民党の影響力が強かった広東、福建、浙江、上海に人材供給源を求めている。また、陝西、甘粛という辺境に近い貧困地区もそこに属している。ところが、毛沢東の時代は、まず、湖南、湖北が毛沢東の地盤であり、これに山西人が加わっていた。鄧小平は、四川省である。江沢民、胡錦涛は、江蘇省である。こうした郷党による盛衰は、個人崇拝に近い宣伝に力を入れると、風が強いうちは全土がなびき、逆に、小さな破たんが生じると危うくなる。

メディアでは分析が郷党に偏っているが、習近平政権は、祖父母が無名でも、1949年の共産党政権の成立以前の抗日戦争、解放戦争、さらには朝鮮戦争で兵士として働いた「隠れた紅二代」に属する「紅家一族」を「革命」貴族とする系図作成し、それを参照して、人材を登用していると思われる。その踏み絵として、習近平の個人崇拝を利用していると思われる。毛沢東派として排除された祖父母の子弟も、「革命」貴族に組み込み、政権の中核のゆるやかな世襲を試みていると思われる。

これは、政治経済集団としては融解しない強硬さをもつが、同時に、判断を一人の頭脳に委ねる無責任体制が蔓延し、社会経済集体としては、経済成長のための自動ブレーキを踏み込んだことを意味する。結果、中長期的にはマイナスという貸借対照表の決算に落ち着く。結果、世界経済に負のシグナルを発することになる。


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人口減の社会の未来図からの逆算(3)

2017年11月05日 | Weblog

人口減により社会が衰退するというネガティブな思考は、経済の主体を民間力を100%だと考える思考の硬直とリンクしている。経済原理には、民間力を高める市場型経済原理にほかに、互恵型経済原理と、国家指令型経済原理がある。明治国家は、この国家指令型経済原理を100%活かしてきた。それが、郵便、電信、鉄道の国営事業の成功である。新自由主義が台頭し、市場型経済原理に一元化することで、国家指令型経済原理は後退した。ところが、他方で、政府が管理監督する社会保険。年金制度に無理が掛かり、「国家が直接に稼げない」日本国を、「国家が直接に稼ぎだす」中国に国民総生産を追い越されることになった。

国家官僚から地方自治体の職員まで、民間からの税収に寄生するようになった。国家指令型の経済原理であれば、国営の事業が公務員の給与を含めて稼ぎだすことができた。老後の生活の安定には、民間に就職する必要を生んだ。このように、新自由主義により、国家公務員がになう国家・国益の使命感は衰えることになった。また、国家公務員が経営すると、赤字体質と労働争議が常態となったために、全世界的に産業の国営化が否定された。唯一、例外なのは、中国共産党である。上級の党員は、マネジメントの実績により昇進する仕組みになった。経営を本務とする政党という職業的な管理者の自己管理組織が、中国共産党である。資本を所有せず、経営を管理する職業人を制度化したわけである。

この中国の強固な内政を参照すると、日本の場合は、特殊に日本銀行を根幹とする国家指令型経済原理の機能が、市場型経済原理を誘導できるかどうか、ここに中国に対する優位性が働くかどうかであるといえる。日本銀行は、既に世界市場において存続し、発展させるべき企業経営人と、査定し、縮小・解体するべき企業の選別を進めている。おそらく邪魔になるのは、独占禁止法である。当面は、日銀のデザインする「人口減の社会の未来図」が一番にしっかりしいることをまず確認しておきたい。金融の頭脳が狂って、第2次世界大戦へののめり込みに加担した日銀は、実に正確に歩んできたが、「バブル経済」と断言し、外科手術を行い、大失敗を犯した。もう一度、日本銀行が失敗したら、日本国は中国文化圏の技術部門に転落することは確実である。


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人口減の社会の未来図からの逆算(2)

2017年11月05日 | Weblog

日本の社会が、歴史的に人口増になった要因を整理しておく。まず、人口が意識され始めたには、戦国時代からである。つまり、武士が階級として政治社会を掌握した織田信長から始まる。そこで、「父性の絶対権」が確立した。それから、江戸時代に入ると、各藩が統治する領国の経済力は、農業、漁業、林業、運輸に依存するので、人口の増加イコール領国の経済の成長という好循環が始まった。そのシステムの極点が、第二次世界大戦である。ここで、「父性の絶対権」が瓦解しはじめ、遂に、「女性戸主」制度が生まれることで、日本社会は戦時中より戦後にかけて、500年前にあった伝統的な「母性社会への回帰」ベクトルが始まった。

戦後社会は、労働力と家産の蓄積が相関する枠組みで、「母性社会」も多子を好む時期があったが、1人当たりの国民総生産額が向上するにつれ、性別を問わないで、子供の高学歴化が進展し、中学卒業と同時に就職する慣習から、高校への全入を風潮とする社会に転じた。そこに立ちはだかるのが、教育費の負担の関係で、1人当たりの教育費の負担を最大化するために、少子化と教育投資とが部分最適となった。今後、幼児から大学生まで「公的な教育費を無償化」しても、子供を高学歴に育てるには、「公教育の外側にある学習塾」を利用する教育投資の負担能力が、子供の将来に影響するようになった。

「公教育を無償化」しても、余裕のある家庭がさらに学校外での教育投資を可能にする。ところが、このような教育投資をしても、「母性社会」を基調とする日本社会では、「家」を持続させる仕組みよりも、「子供本位主義」が主流となり、男子は結婚すれば、妻の側の「母系親族」に組み込まれていく。

このように歴史的にみると、幼児から大学生までの教育費を無償化しても、日本の人口減にとり、なんらの解決策にもならない。ただ、地方社会には、「家産」を所有する伝統的な基層社会の核となる「父系家族」が持続している。また、首都圏でも明治以後、家産の継承を可能にしている「父系家族」が存在する。この「父系家族」の家産を解体し、「母性社会」に還流すれば、日本は留めなく「母のみ真の父親を知る」原始への回帰を生む。

では、基幹に「父系家族」を維持し、「母性社会」の伝統を容認するというのは、実は、憲法第9条の平和条項(母性の願望)と、「父系家族」文化である現実的な国防力との巧みなすり合わせが必要であることを意味している。


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