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ヨハネ10章16節 (詩篇74篇)

2014年10月30日 06時53分05秒 | 聖書

★わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。

■O:今日のコラム
最近、一つになろう運動がこの世で進んでいっています。特に宗教統一など。

イエス様ご自身も私達が主と兄弟姉妹達と一つになることを願っています。しかし、イエス様が言われる一致とは、お互いの違いを受け入れ合うこの世の単なる統一とは違うと私は思います。

今日の箇所から、それが読み取れます。

「彼らはわたしの声に聞き従い」とあるように、唯一の牧者であるイエス様の声に聞き従うことによって、一つの群れになるのです。

私達がみことばを読み、1人1人がイエス様の声に耳を傾け、その言葉に従うならば、必然的に一つとなっていきます。

主に聞き従うとは、時には自分の思いとは違うかもしれません。その時に主に身を委ね従うことができるでしょうか?聞き従う時にこそ一致が生まれるのです。

違いを受け入れるだけでは、一致は生まれません。違いを受け入れ、自分のしたい事をしていたら、結局はバラバラになります。

イエス様が求めている一致はこの世とは違います。唯一の良い牧者、自分の利益を考えず、すべての羊の面倒を命かけてまでもする牧者、この1人の牧者のうちに私達は一つになっていくのです。そのためには、彼の声に日々耳を傾け、聞き従っていく必要があります。


■A:考えてみよう
毎日、どこにいても、良き牧者であるイエス様の声に耳を傾けましょう。そして、彼のいく場所について行き、彼と共に歩んでいきましょう。一致のない所に主にあっての一致をもたらす者となっていきましょう!


■P:祈り
我がうちに住まわれる聖霊様、どうか私が良い牧者であるイエス様の声に聞き従う者となることができるように助けてください。自分を置き、何よりもこの牧者について行くことができる者とさせてください。

イエス様、こんな私を命がけで愛し、また今も、今日も私を守り面倒を見てくださっていることを心から感謝します。あなたについていきます!!

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月29日(水)のつぶやき

2014年10月30日 01時37分55秒 | キリスト教

◆しかしふたりの目はさえぎられていて、

2014年10月29日 15時52分42秒 | 聖書

イエスだとはわからなかった。(ルカ二四・一六)

弟子たちは、イエスを当然知っていなければならなかった。彼らは絶えず主の御声を聞き、御顔を見ていたのに、主を見分けることができなかったとは、むしろ不思議である。しかし、あなたも同様ではないか。あなたは近ごろ、主に会っていない。あなたは主の食卓に列しながら、主にお会いしていない。今夜あなたは暗黒の苦悩のうちにあり、主がはっきりと、「わたしだ。恐れることはない」と告げられるのに、あなたは主を見分けることができない。
ああ、私たちの目はさえぎられている。私たちは主の御声を知り、御顔を眺め、自分の頭を主の胸にもたせかけてきた。しかし、キリストがすぐ近くにおられるのに、私たちは「主がどこにおられるかを知ることができたなら」と言っている。私たちはイエスを知るべきである。私たちは主の御姿を示す聖書を愛している。しかしそれを開きながら、自分の愛する主を一目見ることさえできないとは、どういうことか。
愛する神の子たちよ。あなたはこのような状態にいるか。イエスはみことばのゆりの中におられる。あなたはそのゆりの中を歩きながらも、主を見つけることをしない。主は常に聖書の中を歩み、そよ風の吹くころ、御父がアダムと交わられたように、その民と交わられる。あなたは聖書の園の中におり、主が常にそこにおられるのに、あなたは主を見ることができない。
なぜ私たちは、主を見ないのか。不信仰のゆえである。弟子たちは、明らかに、イエスにお目にかかることを期待していなかった。そのため、彼らはイエスであることがわからなかった。私たちにイエスを見ることができるようにさせるのは、信仰のみである。「私の目を開いて、私と共におられる救い主を見させてください。」これをあなたの祈りとせよ。主にお目にかかることを願うのは幸いである。しかし、おお、主を見つめることは、はるかにまさる。ご自分を求める者に対して、主は親切であられる。しかし主を見いだした者には、主は表現できないほど親愛なお方である。

 


「そこで、主は彼らにその願うところを与え、

2014年10月29日 15時51分29秒 | 聖書

また彼らに病を送ってやせ衰えさせた」(詩篇106:15)

私達は、求めることにおいて、注意しなければならない。
イスラエルの人々は激しい欲望にかられて、わがままに神に求めた。
すると、神はその願うものを与えられたのだ。
あなたが、どうでもこうでも欲しいと言い張るなら、時として神は与えられる。
しかし、魂はやせ衰える。
激しい欲望にかられて求めて、手には入れたが、心は決して満たされる事がないのだ。
返って心虚しくなる。
それほど欲しいものを得たのに、心は平安無く、空虚なのだ。
時に、神は私たちに学びを得させ、教訓を与えるために、私達によくないものであっても、どうしても言い張るなら与えられることがある。
わがままにでなく、神の御心にかなったものを求めるのが一番だ。
自分の欲望ではなく、神の心にかなったものが、私達にとっても最善だから。
幾ら手に入れても決して心は満たされず、更に、心がやせ衰えるのは辛いことだ。
私達の求めを、神のお心に照らして、神の喜ばれるものか、神の栄光が現れるものか、よく吟味してみよう。
自分の肉のわがままな欲望ではないか、自分の栄光のためのものではないか。
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しかし、みこころがなりますように…との態度を忘れぬように。
みこころが最善。
思いは正直に御前に打ち広げて、でも、みこころがなりますようにと祈るなかで、私達は砕かれて行く。


今日の聖人の記念日

2014年10月29日 07時28分36秒 | キリスト教

聖ナルチッソ(エルサレム)

?-220年

 ナルチッソは、ギリシャ人であり、エルサレムの司教として任命されたのは、老年になってからであった。しかし、彼は熱心に教区の司牧にあたり、信者たちをよく導いた。彼を快く思わない者から無実の罪を着せられて訴えられたが、信者たちは、ナルチッソの無実を信じて疑わなかった。しかし彼はこれを機に、かねてから望んでいた、祈りと黙想の生活をするためにエルサレムから退いた。彼が去った後に、代行者が亡くなり、新たに司教が任命されると、ナルチッソは、再びエルサレムに戻った。

 彼は、とても高齢になっていたが、司教に助けられ、司牧の務めを亡くなるまで果たしたといわれている。


◆ストップ、陰口

2014年10月29日 07時27分20秒 | 聖書

たきぎがなければ火が消えるように、
陰口をたたく者がなければ争いはやむ。(箴言二六20)

確かに「陰口」は、争いの火にたきぎをくべるようなものです。それなのに私たちは、よく陰口をたたきます。どうしてでしょうか。
第一に、人のよしあしを言う品定めにはこたえられない楽しみがあります。
第二に、人間には、面前にいる人を喜ばそうという気持ちが働きます。そして、いない人の悪口を言うと、人は一番喜びます。「陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ」と、箴言二六章二二節は言います。
第三に、これは一番強力な陰口の動機です。人はうらみにかられて陰口をたたきます。憎い、うらめしい、怒りでいっぱいだ、怨念を晴らしたい。――そこで、あることないこと陰口をたたきます。
私自身が体験している「陰口のストップ法」を二つ紹介しましょう。第一は、陰口を言いたい時、ことにうらみの気持ちから言いたい時は、待てよ、本人に面と向かって言うとしたら、私は何と言うだろうかと考えます。必要なら、本人に面と向かえばこう言うという文章を実際に書いてみます。そして、本人の面前で言えないことは言わないと、ストップをかけるのです。こんなやり方をして、しばしばよく分かったのは、陰口の槍玉にあがる相手よりも、私自身の高ぶり・怒り・うらみ・憎しみこそ問題だということでした。
第二は、人が陰口を話すのを面白がって聞かず、ストップをかけてしまうことです。ピョートル大帝のところへある貴婦人が来て、自分の主人の悪口を言い始めました。ピョートル大帝は、「私の知ったことではない」と言いました。すると、その女は「でもピョートル大帝、私の主人は陛下の悪口も言いますの」とさそいをかけました。すかさずピョートル大帝は、「それはあなたの知ったことではない」と言ったそうです。

 


◆だから、こう祈りなさい。

2014年10月29日 07時26分26秒 | 聖書

「天にいます私たちの父よ……。」(マタイ六・九)

真の祈りは、主のすべての祈りのように、子が父に呼びかける心、すなわち「私たちの父よ」で始められなければならない。私たちが「立って、父のところに行って……」と言い得るまでは、神に受け入れられる祈りは出てこない。子どものように単純な心はすぐに、「天にいます」父の荘厳さを見させ、「御名があがめられますように」という真心のこもる崇敬を上らせる。「アバ、父」という子どもの片言が成長して、「聖なる、聖なる、聖なる」というセラフィムの叫びとなる。
全心全霊をもってする礼拝から、燃えるような宣教精神までの距離は、わずか一歩にすぎない。この宣教精神は、神への愛と、「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と敬虔に主をあがめることの必然の結果である。
次に心からの神に対する信頼が続く。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」
彼は主に依存しているだけでなく、さらに聖霊の光に照らされる時、自分の罪深さを発見するので、次のようにあわれみを願う。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
そして、罪赦され、キリストの義を着せられ、神に受け入れられたことを知り、彼は常に聖くあることをへりくだりつつ懇願して、「私たちを試みに会わせないで……」と言う。真に罪赦された者は、再び罪を犯すのではないかと恐れる。義とされた者は聖くなろうとする。「私たちの負いめをお赦しください。」これは義認である。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」これは消極積極両面の聖潔である。
以上の結果として次の賛美のことばが続く。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」私たちは、私たちの王が摂理の中に支配されること、やがて、恵みによって地の果てに至るまで統べ治められ、その統治の尽きないことを喜ぶ。

 


第2サムエル記23章18-23節

2014年10月29日 07時25分03秒 | 聖書

23:22 エホヤダの子ベナヤは、これらのことをして、三勇士とともに名をあげた。
23:23 彼はあの三十人の中で最も誉れが高かったが、あの三人には及ばなかった。ダビデは彼を自分の護衛長にした。



 ダビデの下には、先の勇気と力のある3勇士の人たちがいました。

しかし、彼の下にいたのは、それだけの人ではありませんでした。

その下に、3人の同じように誉れの高い人々がいました。

彼らの内の一人は、雪の日に洞穴に入って雄獅子を殺したほどでした。

また、その下にさらに30人の有志の人々がいました。

これらの人々は、先の最も優れた人々にはかないませんでしたが、しかし皆、勇気のある人々でした。

 こうした状況を見ますと、ダビデの下には、単に勇敢な人々がばらばらに集まっていたのではなくて、それらの人々が整えられて、戦いに備える体制を取っていたということがわかります。

教会も同じです。

それぞれに、いろいろな賜物を与えられた人たちがいます。

そして、そのような人々が互いに整えられて奉仕をしていく中で、教会が建てられ、また守られていくのです。



詩篇73篇21~24節

2014年10月29日 07時21分16秒 | 聖書

★私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、
私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。
しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。
あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。

ヨハネによる福音書9章41節
★イエスは彼らに言われた。「もしあな たがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

■O:今日のコラム
10月28日の朝です。主の前に正直になっていきましょう。主が僕らの目を開かれる方だからです。


イエス様は、僕らの高慢さを憎まれます。僕は、今までの経験を通して、「今、主はこの方向に進んでいるだろう」とか考えてしまうことがあります。見えていると思っているのです。しかし、その時には、すでに自分の力でやろうとしている時なのです。主御自身の力での解決を求めていない時です。それは高慢です。それは不誠実です。


僕らは、主に手を握ってもらい、隣に居てもらい、さとして導いてもらい、避け所となってもらわなければならない者です。主が居てくださらなければ、何もできない者なのです。


イエス様は、僕らを見つけ出してくださる方です。見つけ出し、言われます。

『ヨハネ9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」』


だから、僕らは、毎日、毎分毎秒、告白するのです。「イエス様、あなたを信じます。あなたの十字架と復活が私には必要です。あなたが共に歩んでくださらなければ、見ることも、立つこともできません。あなた御自身が、私の願いです。」



詩篇73篇25~28節
『天では、あなたのほかに、だれを待つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
この身とこの心とは尽き果てましょう 。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。
それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。
しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。』


自分の告白として、宣言していきましょう。主の前に正直に、獣のようになってでも良いから、自分を偽らず、主を求めていきましょう。


■A:考えてみよう
主の前に正直に告白していきましょう。主のことを、もっともっともっと主御自身から教えて頂きましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月28日(火)のつぶやき

2014年10月29日 01時37分33秒 | キリスト教

◆その頭は純金です。

2014年10月28日 16時24分29秒 | 聖書

髪の毛はなつめやしの枝で、烏のように黒く……。(雅歌五・一一)

主イエスを説明するためには比較するものがない。しかし花嫁であれば、身近で最善の比較を見いだす。
イエスのかしらによって、私たちは主の神性を理解することができる。「キリストのかしらは神です」とあるからである。そして純金のかたまりは、想像し得る限りの最善の比喩であるが、それでも主の尊さ、純潔、親愛、栄光を述べるには余りにも不十分である。イエスは黄金の粒ではなく、無限に大きな黄金のかたまりであり、天地にたぐうべきもののない貴重な存在であられる。被造物は鉄や粘土にすぎず、すべて木、草、わらのように滅びてしまうであろう。しかし、神の被造物の永遠不死のかしらは、いつまでも輝かれる。
ふさふさとした髪は、主の男らしい力を表す。私たちの愛する主には、いささかの柔弱さもない。主は最も雄々しく、獅子のように大胆であり、雄牛のように勤勉であり、鷲のように軽快であられる。かつて、人々に侮られ、捨てられたが、すべての想像を絶した美がそこに見いだされる。
 主のかしらは麗しい黄金
 甘美な香りに満たされ
 烏の羽のように黒い毛が
 ふさふさとその肩にかかっている
主のかしらの栄光は刈り取られることなく、とこしえにたぐいない栄光をいただく。
黒髪は青年のはつらつさを示す。イエスには青春の露が宿っているからである。人は歳月とともに活気を失う。しかし、主はメルキゼデクのようにとこしえに祭司であられる。人は来てまた去って行く。しかし、主は神として世々限りなく御座に座しておられる。
私たちは今夜主を見、主をあがめよう。天使は主を仰ぎ見る。主によって贖われた者は主から目を背けてはいけない。主のような愛すべきお方がどこにおられるであろう。おお、主と一時問の交わりをもちたい。わずらわしい心労よ。去れ。イエスは私を引き寄せてくださる。主の後を慕って私は走って行く。

 


第2サムエル記23章13-17節

2014年10月28日 16時23分43秒 | 聖書

23:17 言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。



 ダビデもペリシテ人との戦いに出ていました。

その時は、大変気温の高い時でありました。

そこでダビデは何気なく、「ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」と言いました。

 すると、そのことを聞いた先の3人の勇士の人たちは、ペリシテ人のいる陣地を戦いながら通り抜けて、その井戸の所に行き、ダビデの望んでいた井戸の水を汲んできました。

ダビデは驚いてしまいました。

そんなことまで聞いてくれる人がいるとは思いませんでした。

ですから、彼はその水が運ばれてきても、それを飲もうとはしませんでした。

彼らが自分たちの命をかけて、その水を取りに行ってくれたからです。

ダビデは、自分の愚かさを諭されたことでしょう。

それと同時に、このような主人に忠実な僕達を与えてくださった主をあがめたことでしょう。

彼らは主の御心の故に、ダビデに仕えた人々であったのです。


『悪魔は…言った

2014年10月28日 16時21分04秒 | 聖書

「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい…と書いてありますから」』(マタイ4:4)

最初の誘惑で、主は自分の思いと力ではなく、神の言葉によって生きるという事で立ち向かわれた。
すると、次はサタンもそれに乗っ取って攻めて来た。
「では、神殿の頂から下に身を投げても、神が御使いを遣わし支えて下さると書いてあるではないか」と。
御言葉を自分に都合良く勝手に解釈する誘惑だ。
これに対しても、主は、同じく御言葉を用い「神を試みてはならない」と退けられた。
詩篇91:11,12と比較すると「すべての道で」が抜けている。
神の御旨に従い、御心の中にいるなら守られるとの意味だ。
わがままな自分勝手な事をして守られる保障はない。
サタンは聖書を読む時に、私達を誘惑して、都合の良い解釈をさせようとする。
つまり、御言葉を使って、自分の思いを正当化させようとするのだ。
それが御言葉なので気づかない。
実は神の御心でなく自分の思いだ。
サタンの罠だ。
よく気をつけなければ、自分の思いが強いと、自分の思いがフィルターとなり、
御言葉を読み込んでしまう。
神の御声と勘違いする。サタンの惑わしだ。
ここにも悪魔が働いている事をわきまえ、自分の思いを神に明け渡す事だ。
右でも左でも、白でも黒でも、御心に従いますの態度に立つ時、正しく導かれる。
サタンに足場を与えない。
----------------
自分の思いが強すぎて、目の前の現実に不満があるなら、いつしかサタンと会話して行っている。
御言葉に立つ時、心はしっかり守られる。
私たちは弱い。それを覚えて歩もう。


今日の聖人の記念日

2014年10月28日 06時38分12秒 | キリスト教

聖シモン 聖ユダ使徒

1世紀

 シモンは、イエス・キリストの12人の弟子であり、シモン・ペトロと区別するために、熱心党というグループに属していたことから「熱心党のシモン」と呼ばれている。彼は、カナン人であり、使徒のなかでも特に信仰が深く、モーセの律法を厳格に守っていた。

 ユダは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダと区別するために「タデオと呼ばれるユダ」といわれる。彼は、新約聖書によると小ヤコブの兄弟であると記され、キリストの親類とされている。彼はキリストの昇天後、ユダヤ、シリア、小アジアなどで宣教したといわれ、64年ごろに小アジアの諸教会に書簡『ユダの手紙』を書き、信者たちが誤った教えに陥らないように警告し、祈り、神の愛にとどまるよう教えている(参照 ユダの手紙4.8)。

 のちの伝承によれば、シモンとユダはペルシャで宣教し、そこで殉教したといわれている。


◆悪  い  冗  談

2014年10月28日 06時36分58秒 | 聖書

(分別を失った者)は、燃え木を
死の矢として投げるが、
 隣人を欺きながら、
「ただ、戯れただけではないか。」
と言う者も、それと同じだ。          (箴言二六18―19)

ユーモアは、人生の潤滑油です。私の友人で、こんな電話を知り合いの人にかけた人がありました。「もしもし、こちらは電話局ですが、きょう午後一時ごろお宅の電話回線の大掃除をしますので、ごみが出るかもしれません。お宅の電話の受話器に、ビニールのカバーをしておいてください。」「はいはい、そうします。ありがとうございました」と、相手は大まじめで答えました。しばらくしてから、かつがれたと分かって大笑いとなりました。
少しぐらい人をかつぐところがあっても、よいユーモアは人生を楽しくします。自分自身が全くの善意に立ち、また人の善意を素直に信頼し、自分をふくめて、人間の弱さや愚かさを客観的にながめるところに、ユーモアがあります。
しかし、まるで、火薬庫の中に火のついたたいまつを投げこむような悪い冗談もあります。ある会社のサラリーマンは、エイプリルフールだといって、「あのなあ、新宿のラブホテルからA君とBさんが出てくるところを、きのう見ちゃった」とやってしまい、AさんBさんは二人共、会社をやめなければならないような破目になりました。まことに悪い冗談です。「なに、ちょっとからかっただけさ」と、しらばくれてすむ問題ではありません。
善意がなく、人の徳を建てる気持ちがなく、自分ばかり賢そうに立ちまわり、自分が一番愚かで弱い者だと認める勇気がない偽善者には、冗談を言う資格がないのではありませんか。ほんとうのユーモアが流れ出る人は、思いやりのある人に違いないと思います。